茶の湯研究

鶴包丁

                               木津宗詮    

 

 

  年々む月のそれ

  の日かゝるおほむ儀
  

  式を行はせらるゝ事とかや

 僊と化して鶴は
    

    雲井にいく春か

  との津の小芹そ
    

     つるの喰のこし
        

         竹巣月居(花押)

 

 

 江戸時代後期の大坂の浮世絵師寿好堂(じゅこうどう)よし国(芳州)の「鶴庖丁図(つるほうちょうず)」に蕪村(ぶそん)門下の雙璧(そうへき)と賛えられた江森月居(えもりげっきょ)の着賛になる軸である。

 賛の意味は、どこかの船着き場にある(せり)は、毎年毎年、春に遥か雲の上に飛んで行き僊(仙)となる鶴の食い残しである。月居の狂歌は、芭蕉(ばしょう)の「我がためか鶴食み残す芹の飯」の句を引いている。石川北鯤(いしかわほくこん)という人の弟の山店(さんてん)が芭蕉のつれづれを慰めようと芹の飯を持ってきてくれた時に詠んだ句で、この飯は杜甫(とほ)の詩にある「飯には煮る青泥坊底(せいでいぼうてい)の芹」の芹で作ったものらしい。それは鶴が私の為に食べ残してくれたに違いないという意味である。月居はこの句を踏まえて、新春をことほぐ宮中恒例の鶴包丁の図の賛に仙になる尊くありがたい鶴を詠み込んでいるのである。

 「鶴は千年、亀は万年」といって、古来、鶴はとてもめでたい鳥とされてきた。贈答品や献上品・下賜品として用いられた。江戸時代になると鶴の献上や下賜は主従関係を確認する意味があった。そして将軍家から天皇に鶴が献上され、この鶴を天皇の前でさばくことが儀式化されたのが鶴庖丁である。なお、武家政権が鶴を献上し、鶴庖丁を儀式として最初に行ったのは、豊臣秀吉が関白(かんぱく)に就任し、九州攻めを進めていた時のことであった。これは天下人としての権威を誇示するために行われたのである。

 鶴包丁は、正月19日辰の午刻(うまのこく)(午後12時)に清涼殿(せいりょうでん)に天皇出御のもと行われた。御厨子所預(みずしどころあずかり)の高橋家の当主が狩衣(かりぎぬ)烏帽子(えぼし)を着し、清涼殿前庭の舞台の上に上がり、天皇に頭を下げて敬礼する頓首(とんしゅ)をし、膝をついたまま進む膝行(しっこう)をし鶴が載せられたまな板の前に着座する。そしてまな板の状態を確認するために両手の親指でまな板にふれる。右手に包丁、左手に真魚箸(まなばし)を持ち、まず胴体を切り、次に左右の羽を3度撫でて切り、鶴の首を三つに分け、胸を上下に切り分ける。最後に足を切り落として、切った所を三度撫でて包丁と真魚箸を納める。膝をついて退く膝退(しったい)をし、頓首して舞台を降りて終了となるのである。その後、巳刻(みのこく)(午前10時)から紫宸殿(ししんでん)で天覧の舞御覧(まいごらん)が行われる。終了後に「鶴御献(つるおこん)(鶴料理)」が振舞われる。 

 なお、この舞御覧のおもしろい逸話が伝えられている。舞御覧は庶民にも開放された。ただし肩衣(かたぎぬ)(裃の上だけ)を着けていないと観覧することができないため、日之御門(ひのごもん)の北側の穴門(あなもん)の外で肩衣を金を取って貸していたとのことである。高下駄(たかげた)を履いて入ることもできないので、藁草履(わらぞうり)も貸していた。麻裃(あさかみしも)の上だけで、下は袴を着けず着流しで承明門(しょうめいもん)の外側で北を向いて拝観したのである。現在に例えると礼服を着用するのだが、上着だけ羽織りズボンをはいていない姿で、なんとも間抜けな姿である。

 



ページの先頭へ戻る