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和蠟燭

                               木津宗詮

  

 我が国の蠟燭(ろうそく)の歴史は仏教伝来とともに伝わったとされている。奈良時代にはミツバチの巣の蝋を精製した蜜蝋(みつろう)を原料として作られた蝋燭で、宮廷や神社仏閣など上流階級で用いられていた。平安時代には松脂(まつやに)から蝋燭作られるようになり、後にウルシ(漆)の実から作られる木蝋(もくろう)が用いられた。

 

 今日和蠟燭の原料である木蝋は、ウルシ科のハゼ(櫨)の果実を蒸してから、果肉や種子に含まれる融点(ゆうてん)の高い脂肪を圧搾(あっさく)して抽出(ちゅうしゅつ)した蝋である。化学的には中性脂肪(パルミチン酸、ステアリン酸、オレイン酸)を主成分としている。(しぼ)ってからそのまま冷却して固めたものを「生蝋(きろう)」と呼び、さらにこれを天日にさらすなどして漂白したものを蝋燭の材料に用いている。今日も木蝋は蝋燭だけでなく、鬢付(びんづけ)艶出(つやだし)剤、膏薬(こうやく)、口紅、ポマードなどの医薬品や化粧品の原料として幅広く使われている。

 

木蝋の歴史

 ハゼの原産地は中国から東南アジア、インド及ぶが、本来日本にはなかった植物である。それを天正19年(1591)に博多の貿易商人嶋井宗室(しまいそうしつ)神屋宗湛(かみやそうたん)精蝋(せいろう)の目的でハゼの種子を(みん)(中国)の南方から取り寄せ肥前(ひぜん)(佐賀県)の唐津(からつ)で栽培し、後に筑前(ちくぜん)(福岡県北部)にも広げたといわれている。また神屋宗湛が天和年間(1615~23)大坂に出荷して利益を上げていたのがハゼの導入の始まりともいわれている。そして江戸中期には薩摩藩(さつまはん)(しん)(中国)から琉球(りゅうきゅう)を経由して取り入れ、薩摩でも本格的に栽培された。江戸時代にはこのハゼは農家の重要な商品作物であり、西日本諸藩では財政の向上と藩内の経済振興のため、特産物として栽培を奨励した。

 『筑後の𥽜蝋の歴史』によると、八代将軍徳川吉宗(とくがわよしむね)享保(きょうほう)の改革では殖産興業(しょくさんこうぎょう)政策の一環として、柳川藩(やながわはん)久留米藩(くるめはん)熊本藩(くまもとはん)福岡藩(ふくおかはん)長州藩(ちょうしゅうはん)紀州藩(きしゅうはん)等が、薩摩藩からハゼノキの種子を譲り受け、あるいは苗木を買い受けて、川の堤防、道沿い、さらに畑で栽培した。実生(みしょう)の木は実が悪かったり収穫にむらができる。結実までは10年程かかるため優秀な枝を接木(つぎき)した苗が植えられた。接木苗は何本植えても全てたくさんの実が付き二〜四年で収穫でき、その収穫量は10年木で5~10斤(3~6kg)、20年以上の木で30~50斤(18〜30kg)、旺盛な木では150斤(90kg)にもなった。接木の新品種が増殖され、品種改良や突然変異により優秀な品種も発見されている。芽をもった枝を穂木(ほぎ)にして、ほかの多くの台木(だいぎ)に接木され優秀な櫨の遺伝子を受継いだ苗木が増殖され各地に広まることになる。農民たちは最初のうちは有利な条件のハゼ栽培に作間稼(さくまか)ぎとして協力したが、定着すると藩の統制はきびしくなりハゼの増産や収穫を強要され買上価格は極端に低く抑えられ他の作物の収穫時期とも重なり、ハゼの収穫でも2~3ヶ月を要して農民を苦しめるようになった。

 ハゼの栽培による木蝋生産は諸藩の財政の重要な位置を占めることになる。幕末の安政4年(1857)、佐賀藩は外国船来航に備えてオランダの帆船飛雲丸(はんせんひうんまる)を銀千貫分(10数億円相当)の蝋で支払う契約で購入し、翌年にも木造艦電流丸(でんりゅうまる)(300t)を購入している。このように藩の軍備費にも充当されることになる。なお、慶応3年(1867)のパリ万国博覧会に薩摩藩はハゼから作った木蝋を出品している。

 以上のように、江戸時代にはハゼから作られる木蝋が、それまでのウルシを駆逐し、今日「和蠟燭」と呼ばれる蝋燭が広く普及したのである。それでも蝋燭は高級品であり、江戸時代初期、蝋燭(百目蝋燭、重さは375g)一本の価格は200文(5000円)という記録があり高級品であった。当時の大工の一日の手間賃が500文(12500円)なのでいかに高価かがわかる。そうしたことから蝋燭を使用できたのは、寺院や大名屋敷、裕福な町人、高級料亭、遊廓などであり、一般庶民には縁のないものであった。蝋燭が高価なものであったかというと、ハゼの実から蠟分を抽出し、さらに蝋燭を作るのにかなりの時間と手間を要したからである。ちなみに生産地は京、大坂、江戸等の大量消費地を中心として全国的に分布していた。

 木蝋生産の最盛期は幕末から明治時代であったが、明治の初め頃の輸出用木蝋(白蝋)は主として貿易商社によって取り扱われ、日本特産の「Japan Wax」として輸出され外貨獲得の商品であった。明治6年(1873)では生糸(720万円)・茶(470万円)・蚕卵紙(さんらんし)(306万円)・石炭(64万円)・銅(61万円)・昆布(53万円)・米(53万円)・木蝋(42万円)で木蝋は第8位であった。大正期には石油合成品であるパラフィン、 西洋蝋燭 、安価な輸入蝋に押され、石油ランプや電灯の普及によって次第に衰退し、木蝋の生産量は明治32年(1899)と比較すると半分以下に落ちている。 

 大東亜戦争の物資不足で木蝋の生産は一時増え価格も暴騰したが、戦時中の食料増産や終戦後の農地解放によりハゼの作付面積は減少し、ハゼの木は伐採されていった。ちなみに平成2年(1990)のハゼの実の収穫量は福岡県150トン、熊本県150トン、長崎県120トン、愛媛県100トン、佐賀県90トン、鹿児島県32トン、宮崎県30トン、大分県20トンなど、全国で692トンであった。

 

和蠟燭

 洋蝋燭は元来、蜜蝋に綿花(めんか)(つむ)いで作った綿糸(めんし)などを()り合わせたものを(しん)にして、溶けた蜜蝋の中に芯を浸しては引き上げ冷ますことを何度も繰り返して次第に太くしてゆく方法で作られていた。欧米では教会等でかっては用いられていた。なお現在は口紅やクリーム、クレヨン、ワックス等の原料に蜜蝋は使われている。現在は芯を入れた型の中に、石油パラフィンとステアリン酸でできた蝋を芯を入れた型に流し込んで作られている。

 

 それに対し和蠟燭は竹串に和紙を巻き、その上に灯芯用の品種の藺草(いぐさ)(ずい)を巻き付けた芯に蝋を掛けて作られる。芯に用いる藺草は畳表の藺草より背の高い品種で、その髄はごく柔らかいスポンジ状で蝋をよく吸い込み、燃えカスの出ない特質があり、茶の湯では短檠(たんけい)竹檠(ちっけい)などの灯台の灯心として用いられている。使用する時に火付きがよいように、髄の巻き上がった芯の頭部に木蝋をしみ込ませる。現在はこの芯作りは分業されていて奈良県の生駒(いこま)の業者が作っている。

 蝋燭の原料となる木蝋は平たい茶碗状の型に流し込んだ木蝋である。黄土色(おうどいろ)の石鹸のようなもので、「昭和福𥽜(しょうわふくはぜ)」という品種で、福岡や大分等で作られている。この木蝋を鉄鍋に入れて溶かす。次に作業中に蝋燭が串から外れにくくするために竹串に木蝋を塗り、また完成時に蝋燭を竹串から外しやすくするのに菜種油(なたねあぶら)があらかじめ塗られた煤竹(すすたけ)の串(蝋燭屋によりグラスファイバーの串も使用されている)に芯を差し込む。十五(もんめ)(56g)蝋燭の場合、右手に30本ほどの串を持ち、約40度ほどの温度に溶けた蝋を手ですくい上げて芯の部分にかけていく。右手は「馬」と呼ばれるアテ台の上で串をクルクルと回転させ、左手で均等に蝋をつけていく。ある程度まで蝋が付着すると、互いにひっつかないように扇形に束ねていた串を広げてアテ台の上で回しながら蝋を乾燥させる。この工程を4・5回繰り返し「下付(したつけ)」が完了する。

 次に「下掛(したが)」という工程である。「指つぎ」という竹べらを左手の親指に指して蝋燭の形を棒状に整えていく。串の7本ほどの串をアテ台の上で転がし、左手は左右に滑らせて手のひらの蝋を着けて均等な太さにしていく。この作業を4回ほど繰り返しほぼ規定の寸法にする。

 最後の工程である「上掛(うわが)」は化粧掛けに使用される「上蝋(じょうろう)」が掛けられる。上蝋は和歌山県の海南(かいなん)産の「葡萄𥽜(ぶどうはぜ)」という品種の木から作られた木蝋である。

 

下掛けに用いられる昭和福𥽜より葡萄𥽜は融点がわずか1度ほど高く、融点が低い木蝋から三段階に分けて製作され、芯に近い蝋から溶け出し、一番外側の上蝋がダムのような役割を果たし蝋涙(ろうるい)が垂れないように工夫されている。通常の和蠟燭は3本同時に仕上げるが、茶の湯で用いる「数寄屋蝋燭」は1本ずつ手で上から下へ左手を下ろして表面に縦の筋を着ける。(わら)を左手に巻いて着けていた時代もあったとのことで、また蝋燭屋によっては指紋を着ける場合もある。これは茶室の苆壁(すさかべ)同様わびた趣を出す仕上げだと考えられる。なお、これまで見てきたように和蠟燭は製作過程で何度も蝋を重ねて行くのでその断面は年輪状になる。

 最後の工程として「口切(くちき)り」と「尻引(しりひ)き」が行われる。口切は包丁を(あぶ)り左手で持った蝋燭を回しながら包丁を入れ上部と芯を整える。尻引は蝋燭の根元を同じ長さに揃える作業である。

 

 

 

茶の湯と蝋燭

 好々斎(こうこうさい)の口述筆記である『千宗守流点本』に「蝋燭ハ何レノ席ニテモ二十目掛ヲ用ユ」とある。「目と」は「匁(約3、75g)」のことで、蝋燭を作ることを「掛ける」ということに由来する。『千宗守流点本』の「二十目掛蝋燭」とは重さ二十匁(75g)で、長さが7寸(21、2cm)の蝋燭のことである。好々斎は小間、広間の別なく蝋燭は二十匁のものを用いると定めている。広間で灯りの効かない時は蝋燭を増やすということである。

 今日用いられている数寄屋蝋燭は十五目掛(56g)で5匁(19g)小さくなっている。確たる理由は不明であるが一つには小さくなった蝋燭を使わず、常に新しい蝋燭を手燭に灯すので節約の意味と、数寄屋蝋燭が通常の和蠟燭に比べ相当高価であることによると考えられる。

 和蠟燭は神仏の灯明として一部の神社仏閣とわずかながら茶の湯の世界で用いられている。その一部の神社仏閣も和蠟燭でなく洋蝋燭を使うところが徐々に増し、後継者のいる業者は半数以下で、将来的に多くの蝋燭屋が淘汰されていくと考えられる。和蠟燭の揺れる炎の灯りは洋蝋燭の炎には決してない柔らかい暖かさがある。その揺らめく炎に照らされて主も客も道具も茶室も露地も幽玄な風情を醸し出す。決して他の照明で代えることができない灯りである。千四百年以上続いてきた日本の伝統文化の一つである和蠟燭の灯火をなんとか後々までも伝えていけることを切望する。

 なお、本原稿を執筆するにあたり京都の丹治蓮生堂さんと高島の大輿さんの多大なご協力に感謝申し上げる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

参考文献『同門』184号

 

 

 



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