松斎と名古屋

 

 文化十二年(一八一五)、松斎は大坂・名古屋において住宅や茶室の建築に携わっている記録が残されている。そして、名古屋の材木商鈴木惣兵衛(そうべえ)(一八二三〜一八九一)より材木を譲られ、梶木町に家を構え稽古を始めている。のちのことであるが、松斎は尾張徳川家の招致により、紀州家の許しを得て二年にわたり名古屋で、武者小路千家の茶の湯の伝播と紀州藩の風流を示したと伝えられている。

 そのひとつに、俳人で尾張藩士の加藤暁臺(ぎょうたい)名は周挙、通称は平兵衛。号に買夜子、他朗、暮雨巷等)の依頼により、今日庵(こんにちあん)写しと自身の好み時入庵(じにゅうあん)を作っている。昭和二十年(一九四五)の空襲で惜しくも罹災して現存しないが、名古屋市中区大須四丁目にあった龍門園(りゅうもんえん)内にあった。戦前、これらの茶室を実見した川上邦基(くにもと)の記録によると、今日庵写しは忠実に本歌を写していて、その当時の作例としては最古のもののひとつであるとしている。時入庵は松斎の創意になる五畳の広間で、「庵の内部は給仕口の戸に網代を用ひたる外、際立ちたる技巧なしと雖も、全体に開豁の気分ありて稀に見る好茶室なり」とあり、当時、茶道の社交化により大きな茶室を必要としたためで、「蓋し茶事を中心としての集合が漸く家族的となれるの傾向あればなり」といっている。聿斎の記述によると、「暮雨」の額のかかる中門を潜ると回廊があり、天井は化粧天井で敷瓦が敷かれ、柱は杉丸太を用い、杣材の自然木を連子としている。各室の配置はとても巧妙で、今日庵写し二畳を小間にして時入庵五畳を広間として、小間のわびに対し、広間には蹲口の外に堂々たる貴人口を配している。水屋は四畳の畳敷の間に、それぞれの席のために簀子と棚が設けられ、時入庵の方には丸炉が切られている。他に板張りが二畳半あり、ゆったりとした水屋で、茶事の折に懐石を出すのにも大変便利にできている。時入庵は松斎が得意とした五畳席で、やはり多人数の社交的茶会に応じた試みであった。

 



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