願泉寺と紀州藩

 

 三十四世観龍の時、すなわち正徳四年(一七一四)に紀州藩の三代藩主徳川綱教(つなのり)が表千家六代覚々斎(かくかくさい)に命じて書院と茶室を補修させている。また紀州徳川家の参勤交代の途次、願泉寺が陣屋にあてられ、徳川家から三葉葵の寺紋を許されている。

 「紀州家中系譜並に親類書書上げ」によると、堀田家の初代勘平重保は、尾張国(愛知県)の生まれで、小早川秀秋に仕え、関ヶ原の合戦や大坂の陣で戦功をあげた。小早川家改易ののち駿河国(静岡県)で紀州藩初代藩主となる徳川頼宣(よりのぶ)に知行八百石で召し抱えられ、頼宣の紀州転封にともない和歌山に移住している。

 二代孫之丞清長も頼宣に知行三百石で召し抱えられるが、のちに致仕して願泉寺の婿養子となっている。願泉寺三十二代賢龍(けんりゅう)と考えられる。清長は五年間願泉寺に滞在し、改めて知行三百石で帰参し、さらに浪人の間の五年分の知行も与えられている。

 願泉寺三十三代明龍(みょうりゅう)は堀田清長(賢龍)の子と考えられ、明龍には子がなく、和歌山で清長が新たに妻を迎えて生まれた堀田家三代孫之丞博道の孫二人を養子に迎えている。すなわち五男の常丸(少将)と六男の観龍(かんりゅう)である。堀田家四代勘平茂済が跡継ぎがなく没したことにより、常丸は和歌山に帰り五代勘平致福となり、弟の観龍が願泉寺の三十四代となったのである。

 

       


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