不昧の茶の湯

 

 不昧は、幼少期には虚弱で、若年に及ぶにつれ逆に気質も鋭くなり、血気盛んで過度の失策もあったという。近習頭はこの性格を治めるために茶の湯を勧め、また精神修養のため禅に導いたという。そこで不昧は藩主となる以前から江戸屋敷で茶道に励むことになる。はじめ松江藩茶道頭の正井道有(どうゆう)に遠州流の茶の湯を習い、次に将軍家の数寄屋頭の三代伊佐幸琢(こうたく)に師事し石州流怡渓(いけい)派を学び、また一尾(いちお)流の荒井一掌(いっしょう)にも学んでいる。明和八年(一七七一)、石州流怡渓派の皆伝を受けている。その後、様々な流派を参考にして独自の茶風に達し、享和二年(一八〇二)に茶事改正の達しを出して、「不昧流」という独自の流儀を立てている。その流儀は、石州流の一派ではあるが、不昧の「わが流儀立つべからず、諸流皆我が流」(『茶礎』)の語にあるように、自ら一流を立てたが、他流の良いところも認めるというところに、不昧の真骨頂がある。

 二十歳の時に著したという『贅事』では、利休や紹鷗の侘び茶の精神に戻ることを主張し、金にものをいわせて名器を買いあさったり、贅沢な茶会を奢侈贅沢と戒めている。同書に、「釜ひとつ持てば茶の湯は足るものを、よろずの道具好むはかなさ」とある。また、茶道を論じるばかりでなく、天下国家を治める道も説いている。侘び茶の根本精神から、不足であっても事足るという知足の道を説き、茶の湯は修身斉家治国の根本だと主張している。ところが、家政が豊かになるにしたがい名物茶器収集に没頭し、蒐集した道具の数は『雲州蔵帳』によると五百十八点にものぼる。天下の名器「油屋肩衝」を千五百両でもとめたのをはじめ、三百両から二千両もする茶器を購入している。かって『贅言』に主張したことから百八十度の豹変ぶりである。なお、不昧は、「千年の後に、名と物の形代を残さんがため」と、後世のために良いものを残すために、さらに自らがその名器を管理するために道具を蒐集しているといっている。また、財政が潤って藩が強くなると、幕府から警戒されることになるため、その目をかわすために名器買いに走ったという説もある。その後、この不昧の道具蒐集のため、再び松江藩の財政は窮地に陥ることになる。

 不昧は、「古今名物類聚」や「瀬戸陶器濫觴」など、多くの茶器に関する著書を残している。また、茶道の他、禅・儒学などにも優れ、和歌・俳句・画賛等にも優れた多くの作品を残している。現在不昧の好みの茶室に菅田庵(かんでんあん)(重要文化財)・明々庵(めいめいあん)が現存している。

 

 


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