建仁寺開山千光祖師(栄西)旧跡|茶の湯研究|卜深庵 建仁寺開山千光祖師(栄西)旧跡  


建仁寺開山千光祖師(栄西)旧跡

                               木津宗詮

  

栄西禅師は平安末から鎌倉初期にかけて二度にわたり当時南宋と呼ばれていた中国に二度にわたり留学し、わが国に禅宗(臨済禅)を伝え、新たな茶種を南宋からもたらし、その後の喫茶の風習のもととなったことから「日本の茶祖」と崇められている。  かねて私は栄西禅師の生地である岡山はじめ、修学の地である比叡山延暦寺・中国は天台山万年寺、二度目の帰国で最初に布教をした平戸や博多の聖福寺等の足跡を訪ねた。それらの遺跡を紹介する。

 まず栄西禅師の生涯であるが、栄西禅師は永治元年(1141)に備中国(岡山県)吉備津神社の賀陽(かや)氏の一族に生まれた。11歳で安養寺の静心(じょうしん)に師事し、14歳のときに比叡山で出家・授戒をしている。18歳、師の静心が没し法兄の千命(せんみょう)に従い、すぐれた記憶力と理解力とを獲得する修法虚空蔵求聞持法(こくぞうぐもんじほう)を授けられ、天台の教学を学んでいる。その後、伯耆国(鳥取県)大山寺の基好(きこう)のもとで密教を受け、再び比叡山で顕意(けんい)に灌頂(かんじょう)を受けてその密教を相承し、のちに自らの坊号を冠した葉上(ようじょう)流を興している。
 仁安3年(1168)、博多に赴き李徳昭(りとくしょう)より禅宗の盛んな宋国の仏教事情を聞き、4月3日に商船に乗って宋に向けて出航し、24日に南宋明州(寧波)に到着する。時に栄西28歳。のちに東大寺の再興に尽力した俊乗房重源(しゅんじょうぼうちょうげん)と出会い、天台山万年寺で羅漢に茶を供養し阿育王山(あいくおうざん)に詣で9月に重源とともに帰国する。その際に持ち帰った『天台新章疏三十余部六十巻』を天台座主の明雲(みょううん)に献じている。
 文治3年(1187)4月、47歳の時に再び宋に出航する。到着後、臨安府(りんあんふ・杭州)で天竺(インド)行きを申請するが許可が下なかったことから断念し、天台山万年寺において虚庵懐敞(きあんえじょう)に参禅して臨済宗黄龍派(おうりゅうは)の禅を5年にわたり修行する。天台山逗留中、求めに応じて祈雨の法を修し、万年寺なとの伽藍の復興にも尽力しでいる。
 建久2年(1191)の帰国に際して懐敞より法衣と嗣法の印可を授けられ、楊三綱(ようさんこう)の船で平戸葦浦(あしうら)に帰着し、九州の福慧光寺、千光寺など九州地方で布教を開始する。なお、在宋中、茶の効用を研究し、茶種を持ち帰り栽培し、『喫茶養生記(きっさようじょうき)』を著すなどして喫茶の普及と奨励に勤め、その後のわが国における喫茶の習慣が広まるきっかけを作った。また天童山の千仏閣修造の用材を送って造営を援助している。
 建久5年(1194)、京で禅宗を唱えるが達磨宗(禅宗)停止の宣旨が下り、再び九州に赴き同6年(1195)に博多の聖福寺(しょうふくじ)を開き日本最初の禅道場とする。同寺はのちに後鳥羽天皇より「扶桑最初禅窟(ふそうさいしょぜんくつ)」の扁額を賜っている。建久9年(1198)には「興禅護国論(こうぜんごこくろん)」を著し禅が既存宗派を否定するものではなく、仏法復興に重要であることを説きその教えの正統を説いた。その後、京都での布教の限界を感じ鎌倉に下向し幕府の庇護を受け禅宗の振興に努めている。正治2年(1200)、源頼朝一周忌供養法会の導師を勤め、北条政子が建立した寿福寺の住持に請ぜられ、その2年後の建仁2年(1202)、将軍源頼家の庇護のもと建仁寺を創建している。また、建永元年(1206)、重源の後を受けて東大寺大勧進に就任し、その3年後京の法勝寺九重塔の再建を命じられ、建暦2年(1212)、法印に叙せられ翌年には権僧正に就任している。建保3年(1215年)7月5日、75歳、予言した日に建仁寺で示寂し、護国院にその塔所がある。
 



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栄西禅師生誕地


栄西禅師は永治元年(1141)に備中国賀陽郡(岡山市)の吉備津神社権禰宜の賀陽貞遠の子として生まれている。この地は賀陽ゆかりの地で、大正ころまでそのゆかりの庵があった(モノクロ写真)。昭和47年6月1日(旧暦4月1日)栄西禅師誕生の日にこの地に碑を建て除幕している。その碑は茶祖を顕彰する趣旨から茶椀形とし、建仁寺元管長竹田益州老師の題字を揮毫している。 その後、栄西禅師八百年遠忌を記念してこの地の整備工事が行われ、平成26年3月建仁寺派管長の小堀泰巌老師ら同寺関係者をはじめ、同賛仰会・地元文化界・地域住民らが参列して落慶法要が営まれている。建仁寺垣で囲われた庭園の中央にシンボルの石碑、脇に益州老師揮毫の茶碗形石碑を脇に据えた栄西禅師の遺徳をしのぶ場である。なお、中央の石碑は大正時代の庵の写真にも写っていて当時からこの地にあったことがわかる。

吉備津神社

吉備津神社は備前・備中両国(岡山市)の境である吉備の中山北西麓に北面して鎮座する中国地方屈指の古社である。御祭神の大吉備津彦大神は第7代孝霊天皇の第三皇子で、崇神天皇10年、四道将軍の1人として山陽道に派遣されて吉備を平定した。その子孫が吉備の国造となり、古代豪族の吉備臣となったとされている。古来より、吉備国開拓の大祖神として尊崇され、わが国唯一の様式である「吉備津造り(比翼入母屋造)」の社殿や上田秋成の『雨月物語』に登場する釜の鳴る音で吉凶を占う鳴釜の神事、また桃太郎伝説のモデルなどで知られている。



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