津松斎筆 烏帽子棚添状

                        木津宗詮

 木津家初代(しょう)斎宗(さいそう)(せん)が千家十職指物師駒沢(こまざわ)()(さい)作になる烏帽子棚に添えた書状を通じ、烏帽子棚と袱紗の烏帽子折、指物師市郎兵衛等について見ていきます。

 

  書添申上候昨年

  かへりがけニ御置

  被成候一啜斎好ゑぼし棚

  たゝみ候様ニいたし候

  利斎へ申付置候處

  漸々當節句前ニ

  出来可下り申候故

  さし上候御落手可申候

  直段ハ

   七拾五匁

   又貳匁八分 大坂迄下し候値

  右之通ニ御座候尤

  右代ハ節句前ニ

  利斎へハ此方*相拂置

  申候間御序ニ右代

  此方へ御のぼし可申候

    且又右ゑぼし棚

    市郎兵衛方ニ而ハ五十目ニ而

    御座候へ者

  利斎ニ而右たゝむ様ニ

  申付候故市郎兵衛*ハ 

  廿五匁高直ニ御座候

  しかし市郎兵衛*ハ

  余程宜敷候 以上

   右ノ棚の錺り様ハ

   昨年申上置候様ニ

   存し候へ共又々書付

   申上候

  上棚     中棚     下

  (絵)    (絵)    (絵・水)

         茶器

  初錺りハいつも水指と

  茶器斗り也

  其後ハ錺りハどれが

  先きなり候ても不苦候

  杓      茶器

  (絵)    (絵)    (絵・水) 

    ふた置

  茶器     茶碗

  (絵)    (絵)    (絵・水)

         杓          ふた置

         勝手ノ方の向の

         はしらへ前向ニ

         もたせ置申候 

  (絵)    (絵)ふた置 (絵・水)

         杓此時ハ杓

         うつむけ置

         申候 

  (絵)    (絵)    (絵・水)

         ふくさゑぼしおり

         此ゑぼし折りも

         昨年御おしへ

         申上置様ニ存候

  錺りハ右五通りニ御座候

 

釈文

 書き添え申し上げます。昨年、帰りがけに置いていかれました一啜斎好烏帽子棚、たたむことができるようにいたしました。利斎へ申し付けましたところ、ようやく今年の節句前にできましたので差し上げます。お受け取り下さい。

 値段は七十五(もんめ)。また二匁八()、大坂までの送料。

 右の通りでございます。もっとも右の代金は、節句前に利斎(りさい)には当方より支払い申し上げましたので、おついでの折に、右の代金をお送り下さいますよう申し上げます。

 なおまた右の烏帽子棚ですが、市郎兵衛(いちろべえ)の方では五十匁でございますが、利斎に右のようにたたむよう申し付けましたので、市郎兵衛よりは二十五匁高値でございます。しかし市郎兵衛よりは余程できがよろしいです。

 右の棚の飾り方は、昨年申し上げましたように存じますが、再び書き記します。

(中略・原文絵部分参照)

 初飾りはいつも水指と茶器だけです。その後の飾りは、どれが先であっても結構です。

(中略・原文絵部分参照)

 柄杓は勝手付向こうの柱に前向きにもたせます。

 (中略・原文絵部分参照)

 このときは柄杓をうつむけて置きます。

(中略・原文絵部分参照)

 帛紗烏帽子折り。この烏帽子折りも、昨年、お教え申し上げたと存じます。

 飾り方は、右五通りでございます。

 

解説

 冒頭の松斎の書状からは、松斎が大坂の社中の依頼により、一啜斎好みの烏帽子棚を組立式のものに改めた際の様子がわかります。書状の主文は要望の棚ができあがったことと、その代金を知らせる内容で、烏帽子棚の飾り方についての説明を追記しています。主文、追記ともに興味深い事柄が記されており、以下に見ていきます。

 

烏帽子棚

 一啜斎好烏帽子棚は桐木地の二重棚で、中棚が三角形であることからその名が付けられています。四本の桐の柱の向こう二本の間に一枚の板を渡し、上下を白竹で挟み、ここで中棚を受けています。

 この棚について、松斎の一啜斎からの聞書に、

 

  松平讃岐守様ゟ、風呂ニ用ル棚好様依命、一啜斎好。

                     (句読点筆者)

 

とあり、一啜斎が烏帽子棚を好んだ経緯が書かれています。松平讃岐守とは、一翁以来歴代の家元が仕えていた讃岐高松藩主松平家のことです。一啜斎は天明二年(一七八二)に仕官、文政六年(一八二三)に隠居し、四十一年にわたり松平家に仕えていました。仕えた藩主は七代頼起(よりおき)(一七四七〜一七九二)と八代頼儀(よりのり)(一七七五〜一八二九)・九代頼恕(よりひろ)(一七九八〜一八二一)の三人で、そのいずれかの命により風炉用の棚として好まれました。それまでの流儀の好みの棚は直斎好みの矢筈棚や梅棚・小袋棚・竹柱四方棚等炉用が多く、風炉用の棚がほとんどなかったことによると考えられます。

 主文によれば、松斎はその烏帽子棚を組立式にしたいとの依頼を受け、利斎に預けました。烏帽子棚は依頼通りに改められ、「節句前」にできあがりました。利斎の覚書に「二月廿五日」とあることから、ここで「節句前」とは、翌月の三月三日の桃の節句前のこととわかります。烏帽子棚は一啜斎が指物師市郎兵衛に造らせた棚ですが、今回は利斎に頼んだため市郎兵衛よりも出来がよく、値段も高いことが記されています。その代金に関しては後述することにし、追記されている飾り方について見ていきます。

 なお、愈好斎に屋久杉を用いた組立式、有隣斎に北野天満宮の古材で作った好みの烏帽子棚があります。いずれも一瀬小兵衛の作になるものです。

 

烏帽子棚の飾り方

 烏帽子棚では両器を拝見に出したのち、帛紗を烏帽子折にたたんで中棚に飾ります。烏帽子折について松斎の聞書に、

 

  むすびふくさ並ニゑぼしおりハ、文叔の頃よりいたし申候。

  ゑぼしおりハ夏冬共いたし申候。    (句読点筆者)

 

とあり、文叔の時分から行われ、季節を問わなかったようです。また烏帽子折の古くは今日の飾り方とは異なり、前後が反対になっていたようで、帛紗を烏帽子にたたんだときに帛紗の端が出た方が前になるように中棚に飾っていました。客付(向かって右側)から見ると、ちょうど風折烏帽子(かざおりえぼし)折烏帽子の一種。平禮(ひれ)とも呼ぶ。立烏帽子(たてえぼし)が風に折られた状態を形にしたもので、基本的に地下(じげ)人、特に武家の(かぶ)りもののこと。応仁の乱以降、殿上人も狩りや蹴鞠の際に狩衣と共に着用し、公家故実の中に取り込むようになった略儀の烏帽子のこと)になるように飾っていました。木三代(いっ)(さい)の『官休清規』には、

 

  今之れを冠卓より出たる左の棚に飾ることを、一指斎宗守

  は定めたり

一、坪々棚 一、清友棚 一、妙喜庵卓 一、矢筈棚

                 (句読点筆者)

 

とあり、一指斎は本来冠をのせて置く棚である冠卓をもととしたこれらの棚に、烏帽子折にした袱紗を飾るように定めていたようです。また烏帽子棚の中棚以外にも帛紗を飾っていたようで、松斎の聞書に、

 

  烏帽子棚中棚ニ服紗斗飾ル時、ヱホシ折ニスヘシ。其餘ハ

  常ノ通ニ畳テ飾ルヘシ。        (句読点筆者)

 

中棚以外に帛紗を飾るときは、「常ノ通ニ畳テ」とあり「熨斗(のし)結び(千代結び)」にして飾っていたことがわかります。なお、かっては、熨斗(のし)結び(千代結び)に帛紗を結んだ形が着物の重ねと同じということで、ひな人形に見立てて直斎好みの蛤棚に好んで用いられていました。現在熨斗結びは一部を除いてあまり行われていませんが、帛紗を広げて向こうへ二つに折り、さらに手前が上になるように三つ折りにし、それを一つこま結びにして飾ります。他にも竹台子や竹柱四方棚の柱に結び付ける「(せみ)結び(輪結び)」や、真台子の柱に結び付ける「引き結び」等が行われていたようです。

 この聞書には、袱紗についての記述があります。長文ですが、以下に記します。

 

一、  色ハ紅黄紫三色なり。近年一啜斎にて、栗かわ茶出申侯、

紅ハ十五歳已下と、古稀以上の人用ゆるなり、寸法ハ九寸五分ニ八寸五分なり、是ハ真伯時代ニ、三家共申合、此寸法ニ極め、其時より一文字屋三右衛門方ニ而申付る、則ふくさ上つつみの紙の書付ハ、如心斎筆跡なり。右、寸法相極候ゟ前のハ、少し大きく而、とくときまりし事も無之由に御座候、濃茶之節、茶碗江ふくさを添而出し候事ハ、茶碗あつき斗ニあらす、本焼の茶碗をおもんじての事なり、依而楽茶碗ハ草なるもの故に、ふくさハ添不申候。楽ハわびもの故、草なり

 

帛紗の色は紅・黄・紫の三色があり、紅は古稀以上の老人と未成年が用いるものとされていたようです。当時は一般的に十五歳で元服し、それ以下は未成年とされていました。ちなみに聿斎の『官休清規』には、紅は還暦以上で、黄は初老以上に用いるとあります。「栗かわ茶」すなわち炭点前に用いられる櫨色の炭帛紗は、一啜斎が使い始めたようです。現在の袱紗の寸法は九寸三分×八寸八分ですが、当時の寸法は九寸五分×八寸五分で現在のものと比べると少し横長でした。そして六代真伯の時代に三千家申合せでこの寸法に定め、一文字屋三右衛門(いちもんじやさんえもん)が仕立て、表千家如心斎(じょしんさい)の筆跡になる包み紙で販売されていたという興味深い記述があります。なお三千家で寸法を統一するまでは、少し大きめの帛紗で、特に寸法が極まっていなかったようです。一文字屋三右衛門については室町に住んでいたこと以外不明ですが、千家十職袋師五代土田友湖(つちだゆうこ)がこの三右衛門の家がのちに絶えたので、それまでは茶入の袋を仕立てるだけであったのに加えて、帛紗も扱うようになり、今日に至っています。また、濃茶のときに帛紗を添えて出すのは茶碗が熱いからだけではなく、本焼の茶碗(釉薬を掛かけて高火度に焼かれた茶碗)を尊重してのことであり、楽焼の茶碗は侘びたもので草の格式のものなので帛紗は添えなかったことが記されています。

 最後に、烏帽子棚の飾りについては総飾と次飾の一部を除いて現行同様です。総飾は天板の茶器と中棚の茶碗が、現在は逆になっています。次飾は中棚に蓋置と柄杓を飾るときが異なります。現在は中棚の向こう横板の上白竹へ、勝手付の方に柄杓の合をうつぶせにして斜めに引き、その手前に蓋置を飾りますが、ここでは蓋置を中央に置き、柄杓をその左に真っ直ぐにうつぶせて飾っています。

 

利斎と市郎兵衛

 書状にあらわれる市郎兵衛については、苗字は小山で、行年等ほとんど伝わっていません。松斎の利休二百五十年忌の控えに、家元で追善茶事が行われていた間の記録に、「拙・里う下女とも指物師市郎兵衛方ニ逗留いたし候」とあり、松斎と妻のりゅう、下女が市郎兵衛宅に逗留し家元に通っていたことがわかります。市郎兵衛は他の十職同様、比較的家元の近辺に住まいしていたと考えられます。いわゆる茶方の指物師として、木地台子・棚物・文庫硯蓋・香合・茶通箱・茶杓・風炉先屏風・煙草盆・炉縁・行灯・箱類等木地全般の製品を作成しており、主に一啜斎の好みの道具を製作しています。代表的な道具として、烏帽子棚をはじめ桐木地矢筈棚・梅棚・つぼつぼ棚・竹柱四方棚・桐木地梅棚・名取河香合写・杉木地砂摺菊置上炉縁・杉木地香狭間透風炉先屏風・桐木地掻合塗網代煙草盆・桐木地つぼつぼ透煙草盆・桐木地手付煙草盆・行灯等、多数造っています。箱については黒色枠印と無地色枠印のいずれかが押されています。また一啜斎の茶杓の下削りもしていました。

 そして同じ書状中の利斎とは駒沢家七代の利斎のことです。明和七年(一七七〇)生まれで、六代利斎の婿養子になり、名は茂兵衛。通称信邦と称しました。表千家了々斎から曲尺亭(きょくしゃくてい)という号を与えられています。天保十一年(一八四〇)古稀の年に隠居し、表千家吸江斎から少斎(しょうさい)の号を授けられています。了々斎とは特に親しく、了々斎より暖簾の染筆を与えられ、家門の名誉として大変喜んだと伝えられています。駒沢家中興の祖であり、塗師としても名工で春斎(しゅんさい)の号を用い、利休二百五十年忌の際、吸江斎により好まれた「力圍希棗」を製作しています。安政二年(一八五五)、行年八十六歳で没しています。

 さて、主文では棚の代金「七拾五匁」と大坂までの送料「貮匁八分」が記されており、利斎のほうが「市郎兵衛ゟハ廿五匁高直」であったことがわかります。その価値を考えてみるにあたり、当時の貨幣制度について説明を加えます。

 江戸時代の貨幣は金貨と銀貨・銭貨(銅貨)の三種類の貨幣があり、幕末を除くと、金一両=五〇〜六〇匁=銭四、〇〇〇文(幕末には一〇、〇〇〇文)のレートで交換されていました。金貨は計数貨幣(金属の価値とは関係ない貨幣)で、一両を基準としてそれ以下を四進法の単位で表し、大判(十両)・小判(一両)・一両の二分の一の価値の二分金・その四分の一の一分金・その八分の一の二朱金・十六分の一の価値の一朱金がありました。銀貨は重さがそのまま貨幣としての価値である秤量(ひょうりょう)貨幣で、銀貨の単位の匁(一匁=約三、七五g・五円硬貨と同じ重量)は重量の単位になり、丁銀(ちょうぎん)豆板銀(まめいたぎん)(小玉銀(こだまぎん))・五匁銀がありました。秤量貨幣は扱う際に、その都度重さを量る必要があるため、江戸中期以降、計数貨幣の五匁銀(一両の十二分の一)や金貨の単位を借りた一分銀(一両の四分の一)・二朱銀(八分の一)・一朱銀(十六分の一)が用いられました。銭貨は一文銭一枚が一文(四文銭一枚が四文)で、金貨と同じ計数貨幣でした。このように江戸時代、わが国では「金・銀・銭」の三種類の貨幣が併用されていました。さらに、銭は金貨や銀貨の補助貨幣として使用されていたのではなく、円やドルのようにそれぞれ独立した通貨で、金・銀・銭相互の交換比率は、幕府公定の交換相場が示されていましたが、実際の取引は時価相場で交換されていました。

 一両を今日の円に換算するといくらになるのでしょうか。小判は計量貨幣ですが、金属としての「金」の価値に依存していたため、金貨の改鋳により金の品位が落ちたことで物価の騰貴を招き、一両の価値は時代が下がるにつれ下落していきました。また、地域によっても異なるうえ、一般的に江戸時代の米や砂糖等は現在の価格より高く、大工や職人の賃金は現在よりも安いという価値の違いもあり、現在の価値に換算するのはまことに困難です。現在と江戸時代では生活水準や生活様式、経済・金融システムが極端に異なることから比較不能といえます。ここでは東京都江戸東京博物館編『江戸東京歴史探検〈第三巻〉江戸で暮らしてみる』に基づいて換算してみます。江戸時代の米価は需要と供給のバランス関係のみで決まっていたので、米価自体は変動していましたが、おおよそ米一石=金一両とされています。現代の米を一キロ=五〇〇円とすると、一石=一五〇キログラム=七五、〇〇〇円となり、江戸時代の米の価格は現代より相対的に高いとし、現代の五割増とすると、七五、〇〇〇円×一、五=一一二、五〇〇円となります。当時の普通の店では小判一両に対する釣銭の用意ができなかったといわれていることから、現在の一〇〇、〇〇円ほどと想定できます。元禄ごろからは一両=六〇匁=四貫文となり、これを勘案して端数を切り捨てて、一両=一二〇、〇〇〇円とします。銀は一両=五〇匁。一匁=二、四〇〇円。一分=二四〇円となります。

 以上のことに基き、あえてこの棚の代金の感覚を掴むために今日の価格を推算してみます。棚の代金が七十五匁で、現在の貨幣に換算しておよそ十八万円。送料が二匁八分で、六、七二〇円となります。棚の代金は、現在に比べて職人の賃金が安かったことから、今日の相場から見ると大変安価です。それに比して送料が高価であったといえます。市郎兵衛のほうでは、組立式にすると五十目とあります。匁で表した値の一の位が零である場合には、匁の代わりに「目」と書くことがあり、この場合は五十匁のことです。今日の価格に換算すると約十二万円となります。利斎のほうが六万円ほど高くなりますが、出来は大変良かったようです。市郎兵衛と利斎の価格の違いがよくわかります。なお、この換算は江戸を基準にしており、上方は若干異なることをご了解下さい。

 

 

 







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