韓国茶道         

                               木津宗詮

 

 平成20年(2008)6月に社中有志とともに韓国木浦郊外の全羅南道海南郡の大興寺(だいこうじ・テフンサ)と同じく茶山草堂(ちゃざんそうどう・タサンチョダン)を訪れた。この二つの地は韓国茶道の聖地とされている。以下、その時の体験を踏まえて韓国茶道について記していく。

 

日韓の喫茶史

 日本列島と朝鮮半島(韓半島、以下朝鮮半島と表記する。国名は時代に応じて新羅(しらぎ)高句麗(こうくり)、朝鮮と呼び、解放後は韓国。地名等は一般的に日本で用いられているもので表記する)は対馬海峡(つしまかいきょう)西水道を隔てて隣接している。古来、人の往来が繰り広げられ、儒教や仏教、漢字等をはじめ多くの文物が朝鮮半島から日本列島に伝えられた。また反対にトウガラシや煙草、鉄砲が日本列島から伝えられている。不幸な時代があったものの、両地域は永年にわたり深い交流が繰り広げられて今日にいたっている。

 茶はインド・アッサム地方を原産とされ、陸羽(りくう)の『茶経』に「南方の嘉木(かぼく)」とあるように、中国にも南方から伝わったものである。この茶が、日本も韓国も同じく中国から伝えられ、現在に至るまで紆余曲折を経て喫茶の風習が行われている。日本における茶種の伝来は、具体的な時期は不明であるが、『日吉社神道秘密記』によると弘仁6年(815)、最澄(さいちょう)が唐から持ち帰り、比叡山(ひえいざん)山麓の坂本(さかもと)に植えたという伝説がある。また『日本後記』の弘仁6年(815)に、嵯峨天皇(さがてんのう)が近江国滋賀(しが)唐崎(からさき)にあった梵釈寺(ぼんしゃくじ)に行幸した際に、僧永忠(えいちゅう)が天皇に茶を献じたとあり、また畿内をはじめ近江、丹波、播磨等の諸国に茶を植えさせ、毎年、宮中に献上させたとある。いずれにしろ確実な記録によると、平安時代の初めに入唐帰朝した僧たちにより、唐から茶が伝えられたと考えられる。その後、文化の国風化により一時喫茶の風習は廃るが、建久2年(1191)、臨済禅を日本に最初に伝えた栄西(ようさい)の2度目の入宋の帰国の時に、新たに宋から茶種と抹茶法が伝えられ、現在に至るまでこの抹茶による喫茶が行われている。

 朝鮮半島には金官加羅氏(きんかんからし)の始祖首露王(しゅろおう)の妃許黄玉(きょこうぎょく)がインド阿踰陀国(あゆだこく)から金海(きんかい)に伝えたという伝説がある。文献では『三国史記』に新羅の興徳王(こうとくおう)3年(828)の条に、「入唐廻使大簾持茶種子來、王使植地理山、茶自善徳王時有之、至於此盛焉」とあり、興徳王が使臣を唐に派遣して朝貢をした。帰国に当たり、使臣大簾(だいれん)が茶の種を持参し、国王が地理山(ちりさん)智異山(ちいさん))に植えさせたということである。また茶は善徳王(ぜんとくおう)の時代からあったものだが、興徳王の時代に至り盛んになったともある。いずれにしても中国と朝鮮半島は地続きであり、古くから人の往来があったことから、嗜好品である茶は早くから朝鮮半島に伝わっていたに違いない。

 高麗は宋の仏教や典籍や文化を積極的に取り入れた。そして喫茶の風は大変盛んになる。茶に関する記録には僧侶にまつわる話しが主で、茶は寺院を中心に広まっていったようである。仏教を保護した高麗の朝廷では日常の喫茶をはじめ、各種儀式で茶が飲まれていた。また茶を貢賦(貢ぎ物と租税)とする地方制度もあった。そして喫茶の風習は広く民間にも広がり、盛んに行われるようになった。ちなみに、当時は抹茶が飲まれていたようである。

 北宋宣和6年(1124)、徐兢(きょけい)が高麗の使節団として往復した時の記録で、都開京(かいきょう)にほぼ1ケ月滞在し、体験したことや見聞や衆説をもとにしている。当時の高麗の文物や習俗を記した『高麗図経』(『宣和奉使高麗図経』)では、宋の臘茶(ろうちゃ)龍鳳団茶(りゅうほうだんちゃ)が貴ばれ、大変喜んで茶が飲まれ、茶具の金花烏盞(きんかうさん)翡色小甌(ひしょくしょうおう)銀爐(ぎんろ)湯鼎(とうてい)も宋のものに倣い、宮廷での宴会での喫茶や、人に接するにあたり茶を呈し、飲み尽くすと喜び、そうでないと自分をゆるがせにしたとして早々に去るとあり、高麗における喫茶の風習が記されている。なお同書には「土産茶、味似苦渋不可入口」と高麗の茶は苦くて渋いので口にしてはいけないとあり、その品質が悪かったことが伺える。これは高麗の緯度が高く、当時の茶種があまり栽培に適していなかったことによるのだろうか。

 高麗(こうらい)朝の次代の王朝である李氏(りし)朝鮮は儒教の学派である朱子学(しゅしがく)を尊重し、仏教を弾圧した。しかし、建国当初、太祖李成桂(りせいけい)は仏教に帰依したが、3代太宗(たいそう)李芳遠(りほうえん)の時代から本格的な廃仏が始まり、その後紆余曲折があったものの、最終的には16代仁祖(じんそ)の時代にいたり、朝鮮の廃仏政策が完成する。こうした中、仏教的な文物の多くが破棄され、仏教との関わりが深かった喫茶の風習も廃っていき、一部、寺院や王室、両班(やんばん)など上流階級の間に細々と伝えられていく。この時代の喫茶法については不明な点が多いが、朝鮮の25代472年間の歴史的事実を記録した『朝鮮王朝実録』に、(みん)の使節を迎えた時に宿舎の太平館(たいへいかん)で国王親臨による茶礼(ちゃれい・タレ)倭使(わし)を迎えて催される茶礼等が記録されている。また医官が国王を診察するさいに、他の薬剤とともに茶を進める薬用進茶(やくようしんちゃ)が行われている。朝鮮半島には茶の栽培に適した土地が少ないこともあり、慶尚道(けいしょうどう)全羅道(ぜんらどう)でわずかに生産されていた。外国使臣に王室が贈答用として用いた天地団茶(てんちだんちゃ)や、一部の庶民に飲まれた孔空(あなあ)き銭貨形の緑苔銭(りょくたいせん)青苔銭(せいたいせん)銭茶(せんちゃ))と呼ばれる固形茶や、新芽が雀の舌ほどの大きさの時に摘み製茶した一部雀舌茶(じゃくぜつちゃ)等が作られ、また全羅道など茶が栽培されていた地域の庶民は自家用としても茶を作り、製茶は存続した。しかし、高級茶は中国らかの輸入品が主流であった。なお日本が植民地支配をしていた時に、日本から新たな茶種が持ち込まれ、DNAの形質から在来種を韓国野生茶と呼ばれている。ちなみに日韓併合後は日本人の移住に伴い、日本の茶の湯も伝えられ、高等女学校や女子専門学校で茶の湯が教授されていた。武者小路千家でも元山(げんさん)に支部が設けられ、中山日運(なかやまにちうん)が流儀の茶の湯を広めていた。解放後、韓国では伝統的な韓国茶礼(茶道)の復興がはかられ現在に至っている。なお、中村修也氏によると、文献資料からは朝鮮半島において「茶道」という言葉が使われている例は確認されず(『茶神伝』に一箇所だけ登場している)、儀式としての「茶礼」に重点が置かれていた。朝鮮半島における「道」の語は通常道教(道家思想)を意味するものであり、仏道修行の意図で用いられている日本の「茶道」とは区別する必要があるとしている。

 

韓国伝統茶

 李氏朝鮮以降、朝鮮半島では喫茶の風習が衰頽し、庶民の間では茶をほとんど飲まれず、かわりに茶葉を用いない飲料が発達普及する。木の根などを煎じた薬湯にインサム茶(高麗人参)やセンガン茶(生姜と砂糖、蜂蜜をにこんだもの)、ケーピ茶(肉桂)、キョルミョンジャ茶(エビクサ)、果物を湯に浸したユジャ茶(柚子と砂糖、蜂蜜を煮込んだもの)、デチュ茶(棗と砂糖、蜂蜜を煮込んだもの)、モクァ茶(木瓜・カリンと砂糖と蜂蜜を煮込んだもの)、穀類を焙煎したものにオクスス茶(トウモロコシ)、ポリ茶(大麦)、ユルム茶(はと麦)、日本でも懐石料理で出される炒米に湯を注いだ「こがし(湯斗(ゆと))」と同じスンニュン等が飲料として嗜好され、「韓国伝統茶」として広く一般に飲まれている。なおこれらの飲み物自体も茶と呼ばれている。

 中村修也氏によると、地域や生活レベルによって違いが出てくるが、韓国社会で日常飲料物となっているのは水で、食後の休息や仕事休めに飲まれているのはコーヒーであることが多いとのことである。かつてはスンニョンも多かったが、電気炊飯器の普及でオコゲができなくなり、家庭ではスンニョンが作りにくくなり、日本で食後に飲まれる緑茶の代わりになるのが水で、口直しやお茶の時間に飲まれるコーヒーが一般的な飲み物となっている。

 同氏は韓国での飲茶の衰退は、李朝による仏教弾圧や茶に対する課税が原因ではないとしてる。韓国料理はトウガラシを用いた辛いものが主流で、そうしたものを食べる時には冷たいものが飲みたくなる。逆に熱い茶など飲む気にはなれない。緑茶を冷まして飲めばよいようであるが、タンニンが多く出て体にはよくなく、また味も悪くなる。トウガラシ料理文化に緑茶は嗜好的に不適切な存在となる。喫茶の文化が衰退したのは、単純にトウガラシ文化の普及によるものではないかと指摘している。

 

草衣禅師

 草衣は正祖10年(1786年)4月5日全羅南道務安郡三郷面旺山里(ぜんらなんどうむあんぐんごうめんおうさんり)で生まれ、

俗姓は興城張(こうじょうちょう)氏。名は意恂(いじゅん)、号を一枝庵(いっしあん・イルチアン)と称した。15歳の時に

羅州市南平(らしゅうしなんへい)にある雲興寺(うんこうじ)で出家し、19歳の時、海南の大興寺で玩虎(がんこ)から具足戒(ぐそくかい)

を受けて一人前の僧になり、海の上に昇る十五夜を見ていて大きく悟りを得

た。

 草衣は詩・書・画に優れ、書は天衣無縫で、また仏画を得意とし、韓国最高の近代画家とされる許鍊(きょれん)は草衣に師事して絵を師事した。当時、康津(こうしん)に流刑中であった丁若鏞(ていじゃくしょう・ジャンヤギョン)からは儒学と詩文を学び、金正喜(きんせいき・キムジョン)など当代の碩学とも交流した。

 39歳のとき大興寺の後ろに一枝庵を建てて、ここで『草衣禪』や『東茶頌』、

『茶神專』などを著述している。同書は中国唐時代の陸羽への回帰志向が強

く表れている。55歳の時、憲宗(けんそう)から大覚登階普済尊者艸衣大宗師(だいかくとうかいふさいそんじゃそうえだいしゅうし)という諡号(しごう)を受け、高宗(こうそう)3年(1866)に81歳で没している。法臘(ほうろう)66。

 草衣は、当時、沈滞していた仏教界に旋風を巻き起こした禅僧で、韓国の茶道を中興させた茶聖として尊ばれ、また大興寺は韓国茶文化の聖地とされている。

 

丁若鏞

 18世紀の韓国では「実学(じつがく)」という新しい学問が盛んになる。実学は、それまで韓国社会を支配していた儒教、特に朱子学から抜け出し、実際の役に立つ学問のことをいう。もっとも著名な実学者のひとりが丁若鏞(1762–1836)である。彼英祖(えいそ)38年(1762)、父丁載遠(ていさいえん)と母海南尹氏(いんし)の四男として京畿道広州(けいきどうこうしゅう)で生まれた。字は美庸、頌甫。号は俟菴、冽水、茶山、紫霞道人、門巌逸人等。堂号は与猶堂である。4歳の時に『千字文』を学び、7歳で漢詩を作り、15歳で結婚し、父の再出仕に伴い漢陽(かんよう)(現ソウル)に転居した。22歳で官僚になるための試験である会試(かいし)科挙(かきょ))に合格して生員(せいいん)となり、この年には長男学淵(がくえん)が生まれている。翌年、正祖(せいそ)(在位 1776–1800)の御前で『中庸(ちゅうよう)』を進講し、その後王自らが考査する殿試(でんし)に合格している。1792年修撰(しゅうせん)にある時、西洋式築城法を基礎にした『城説』と『起重架図説』を書き、正祖の水原(すいげん)城修築に寄与している。1794年には王命を受け秘密裏に地方を巡行しながら悪政を糾明し民政を調査する臨時の官職である京畿道暗行御史(あんこうぎょし)となり、(れんせん)県監の(じょりゅうほ)を辞任させるなど大きく活躍している。1797年には王を補佐する日本の内閣官房のような官職である承旨(しょうじ)として重用され、正祖(せいそ)の寵愛を一身に受け、若い頃から要職を歴任した。このような彼に対する王の絶対的な信頼と寵愛が却ってあだとなり、1800年、正祖の死ともない、彼にとってかってない試練がはじまる。正祖時代は、老論(ろうろん)少論(しょうろん)南人(なんじん)小北(しょうほく)等の党派による党争緩和のために、前代英祖(在位1724–1776)が行った、各派を平等に登用する蕩平(とうへい)策が継承されていた。彼は南人系に属していた。純祖(じゅんそ)(在位 1800–34)が幼少で即位すると、大王大妃金氏 (英祖の妃、正祖の継祖母) による垂簾(すいれん)政治が行われ、王妃の父で老論(正祖の父荘献世子(そうけんせいし)をおとしいれ、死に追いやった勢力)辟派(へきは)(正祖の政策に反対した老論勢力)のリーダーであった金祖淳(きんそじゅん)が実権を握って時派(じは)(正祖を支持した勢力)を抑圧した。時派には老論の一部も含まれていたが、特に南人時派には天主(てんしゅ)教徒(カトリック)が多く、正祖の死後、天主教に対する大々的な弾圧が始まったのである。人は誰も神のもとでは平等であるとする天主教の教えは、権力層からみれば、社会秩序を乱す宗教である。老論辟派はそれにかこつけて政敵南人時派を一掃した。1801年に禁教令が出され、辛酉(しんゆう)迫害や五家作統法(ごかさくとうほう)(相互監視制度)の実施による組織的な宗教弾圧が行われた。彼の一家は天主教と関連が深く、彼自身も熱心な天主教の信者であった。この時、天主教信者100人が殺され、400人が島流しにされている。このような政治的な理由も絡んで、かれは遥か南海岸の全羅南道康津(こうしん)まで流され、そこで18年間過すことになる。なお兄の若銓(じゃじゅせん)黒山島(こくざんとう)へ流刑に処された。

 初め康津の人たちは若鏞を温かく迎えいれたわけではない。彼は王の寵臣であり、早くから学者、詩人として著名で、その卓越した才能と人格から、世間の人からやがて宰相になるであろうとまで高く評価されていた。かえって康津の人たちにとって、若鏞は大罪を犯して流罪となった罪人に過ぎなかったのである。失意の底に沈んでいた若鏞5年もの間、康津の人々から疎外されたまま、東門外の酒屋に寄宿しで孤独な時間を送った。その頃の彼は絶望と孤独に耐えきれず酒におぼれていたのである。そうした時に若鏞万徳山(まんとくざん)中腹の白蓮寺(びゃくれんじ)で、茶を通じて心の安らぎを得る機縁に得た。そして万徳山のふもとの茶山草堂に移った。茶山草堂は元来、橘林処士(きつりんしょし)尹端(いんたん)の山亭であった所で、若鏞の母方の実家である海南尹氏一家の好意でここを草堂と尹氏の蔵書で学問したのである。若鏞はここにとどまりながら、門人に自分の持っていた学問と知識を磨き、さまざまな苦境を乗り越えて、ここ康津で実学の花を咲かせ、結実させたのである。当時の若鏞が同じ逆境にある息子に与えた手紙に、「私の学問は、このような困難にあっても、一日として中断したことがない。今、私は初めて悟った。逆境のなかにあって初めて、書物を著す資格を得、本物の価値ある書物を残すことができるようになるのである。青年時代に苦しい災難に遭ったお前のような者こそ、本当の読書ができ、本当の学問ができるのだ。人よりも苦労している人こそが、まことの深い学問を修めることができるのである」彼の学問に対する気概と思いがまじまじとみることができる。

 若鏞は政治機構の全面的改革と地方行政の刷新、農民の土地所有均一化と

労働力に依拠した収穫の公平な分配、奴婢(ぬひ)制の廃止などを主張した。若鏞は

民衆を愛し、政治をはじめ法律、経済、医学,教育、歴史,科学等あらゆる

学問を修め、特に合理主義的な立場に立ち西洋の科学知識も導入し、実学を

集大成した功績はまことに偉大なものがある。若鏞の生涯で残した著作は民

の上に立つ官僚が守るべき心得を記録した『牧民心書』をはじめ、国政全般

にわたる改革プランである『経世遺表』、民本主義を展開した『湯論』、『原

牧』など 500余巻以上の及ぶと言われている。

 

茶山草堂

 植えられたばかりの水田に囲まれた道を進む。韓国は幼い頃の日本と同じ

で、田植えは梅雨時に行われる。作られている米は早稲でなく昔ながらのも

のようである。また二毛作で麦を植えることから、この時分の田植えになる

のだろう。この辺りは韓国でも有数の米所であるとともに、茶所でもある。

韓国では「良い茶は海に近く、朝もやが多い竹が生い茂る山で作られる」と

古くからいわれている。茶山草堂は丁若鏞が10年間過ごし、著述と茶道に専

念したところであり、彼の息吹きが感じられる所である

 茶山遺物展示館の駐車場で下車し、展示館の裏の小道を進む。楢や櫟、松

が混成する雑木林の中のわずかな傾斜の小道で、脇には耳をくすぐる微かな

せせらぎをたてる流れがある。途中尹家の墓がある。しばらく進むと、急に

道が険しくなり、苔むした石垣が見えて来る。左側に西庵、中央に草堂、池

をはさんで右に東庵。ここで若鏞は弟子たちを教え、茶を楽しんだのである。

 草堂は瓦葺きであるが、彼が住まいした時分は藁葺きであったであろう。

若鏞が起居した建物は長い歳月で腐ちはて、今は新たに書生を教えた東庵、

書斎であった西庵と草堂が復元されている。金在石(きんざいせき)が1936年に茶山を訪れた

時には何一つ建物がなかった。1939年に家入一雄(いえいりかずお)が訪れた時には2軒の建物が

あったと記録されている。草堂の裏に彼が茶に用いた泉がある。この泉は旱

天にも乾くことがないといわれる澄んだ清水が湧きでてきている「薬泉」で

ある。前庭には、若鏞が茶を楽しむ時に、松葉や松毬を焼いて湯を沸かした

茶竃(ちゃそう)」が残る。これは若鏞の愛用のものとして著名な竃で、みずから青石

を切って、煙突として耳を2つ付け、火を焚くとここから煙が立ちのぼるよ

うになっている。草堂の脇には切り石を縁にした池がある。彼が草堂へ移住

した後、海辺の石を集めて造ったという「蓮池石假山(れんちせっかざん)」である。裏の雑木林

から4,50度位の傾斜の小さな滝があり、そこに竹の筧を通して静かな音をた

てて池に水が注がれている。この流れを若川という。流刑の赦免を前にして、

自身が留まったことをのちに残すために鮮明に「丁石(ていせき)」の二字が刻ざまれた

巨大な岩がある。縦が70センチ横が40センチほどの縁取りに、楷書で深々と

鮮やかな力強い文字である。「薬泉」「茶竃」「蓮池石假山」「丁石」の4つ

が「茶山四景」である。東庵の脇の緑陰の小道をしばらく遡る。しばらくす

ると楚々とした花をつけた木槿の木が数本。赤松に囲まれた中に天一閣があ

る。閣に上がると眼下に九江浦(きゅうこうほ)とのどかな田園のすばらしい眺望が広がる。

次の詩から若鏞の茶山での暮らしうかがうことができる。

 

  寒声澗到上包竹  

  春意庭存一枝梅  

  美楽在中無処説

  屢回清在起徘徊

  都無書籍貯山亭

  唯是花経与水経

  頗愛橘林新雨後

  巌泉手取洗茶瓶

  頻舂薬臼煩無蘇

  稀煮茶炉静有塵

 

丁若鏞の茶

 朝鮮は高麗の仏教に対し、儒教を社会秩序、政治理念として採用して建国

思想である朱子学である。なお韓国では朱子学のことを一般に性理学(せいりがく)と呼び、「性すなわち理」という朱子学の命題に従っての命名によっている。朝鮮では朱子学の道徳精神が社会の精神的な指標となり、教育理念となった。忠孝を根幹とした三綱五倫(さんこうごりん)
儒教の道徳思想で基本になる3つ綱領と5つの人倫のこと。三綱とは君主と臣下は「忠」、両親と子は「孝」、夫と妻は「烈」。五倫は両親と子は「親」、君主と臣下は「義」、夫と妻は「別」、長幼は「序 」朋友は「信」) を基礎とした儒教教育は、一般庶民のためと言うより、支配層である両班階級のためであり、官吏になるため、又は個人的な修養のために教育された。教育内容は四書五経(ししょごきょう)などの儒敎経典中心の人文教育が行われた。丁若鏞も幼い頃から儒教教育をほどこされ、彼の茶は儒教の思想に培われたもので、儒教の理想の境涯と茶が一つになったものではなかろうか。儒教の古典の一つ『中庸』第十四章に、

 

 素富貴行乎富貴、素貧賤行乎貧賤、素夷狄行乎夷狄、素患難行乎患難、君 

 子無入而不自得焉(富貴に素しては富貴を行い、貧賤に素しては貧賤を行

 い、夷狄に素しては夷狄を行い、患難に素しては患難を行う、君子は入る

 として自得せざるは無し)

 

とあり、君子はその境遇を天命と心得、それを果たすべく力を尽くし、
それ

以外のことを願わず満ち足りている。
富貴であってもおごることなく、
そ

れにかなった仕方で道を行ない、
貧賎であっても卑屈にならず、
それにか

なった方法で道を行ない、
未開の地にあっても道を守り、
艱難に出会って

も恐れず心配せずに、おのずから的確に対応する。
君子はいかなる境遇にな

ろうとも、
不平不満の念を起すことなく悠々自適するものである。草衣は世

俗の欲望を捨て、深山幽谷に庵を結び、清らかな泉を湯に沸かして茶を喫す

る、俗界から隔絶された理想境の茶である。それに対し、若鏞の茶は積極的

に現実の俗界の中に身を置き、いまおかれている状況を素直に受け入れ、現

状を肯定した達観の境地から生まれのが、彼の茶であったと考えられる。両

者の茶は共通するように見えるが、根本的なところに違いがあるのではない

だろうか。それは草衣は僧侶であり丁若鏞は学者であるとともに政治家であ

る。それぞれの置かれた境遇からこのように異なる茶が生み出されたのであ

う。

 丁若鏞が罪を許されて都の帰るにあたり、門人たちとともに『茶信契節目』

を著した。これは門人たちが彼の恩義に報いるための申し合わせである。内

容は毎年清明、寒食の日、菊の花が開いた頃に契員が茶山に集まり詩を作り

彼のもとに書き送ることや、毎年、茶を摘み製茶してその茶葉と餅茶を送る

こと、東庵の屋根を冬至の前に葺き替えることなどが記されている。このこ

とは110余年にわたり子孫たちに守られたとのことである。

 丁若鏞は実学を大成させた学者として著名であるばかりでなく、『茶盒詩帖』や 『東茶記』等を著して韓国茶道を振興させ、のちに多大な影響を与えている。韓国の歴史家鄭寅普(ていいんふ)は「茶山一人に関する研究は、すなわち、わが国に関する研究であり、わが国の魂に関する研究であるし、わが国が生きて死んだことに関する研究」であると彼を評価しいる。

 

日本の茶と韓国の茶

 日本の茶の湯もこの韓国の茶と共通する側面を多分に持ち合わせている。

伝統的な和歌の世界では、その場にいなくとも歌枕の地に居るがごとく、季

節が異なっても与えられた題の季節の歌を、同じ空間でその場に居る人々と共

に同じ春を楽しみ、同じ秋を楽しむ。喧噪の巷にいても歌会の場では山居を詠

む。源平争乱の時代に藤原定家がその日記『明月記』に「紅旗征戎非吾事(紅旗征戎(こうきせいじゅう)吾が事に非ず)」と記している。紅旗、すなわち天皇を奉じた

平氏の朝敵征伐など知ったことではない、の語にみられるように、歌を詠むと

いうことは現実の世界から離れ非現実に遊ぶのである。そして再び現実の世界

に戻り日々を過ごす。これ考えは和歌から連歌へ、そして茶の湯の世界にも引

き継がれていく。中世、茶の湯で用いられた「市中(しちゅう)の隠」ということばがそれ

である。喧噪の市中にありながらそこに「隠」すなわち非現実の別世界で茶を

楽しむのである。そして茶の湯を終えると再びおのれの日々の生業の世界に戻

る。決して世俗の欲望をすべて捨て、深山幽谷に庵を結び、清らかな泉を湯に

沸かして茶を喫するという俗界から隔絶された理想境の茶ではない。これは和

歌という以前に日本人が本来持っていると思考であり特性であると考えられる。

この市中の隠がバックボーンなり、日本の風土と民族性、外来の仏教、特に禅

と儒教、道教と神仙思想が影響して日本の茶の湯が作られたのだと私は考える。

 

参考文献 諸岡存・家入一雄著『朝鮮の茶と禅』

     姜在彦著『朝鮮儒教の二千年』

     朴倍暎『儒教と近代国家』

     金明培『韓国の茶道文化』

     小川晴久『朝鮮文化史の人びと』花伝社

     村井康彦『茶の湯の歴史』







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