高山右近

江戸幕府のキリスト教禁教令で国外に追放され、殉教したキリシタン大名で利休七哲の一人高山右近を「福者」とするカトリック教会の列福式が大阪城ホールで開かれました。 福者とはカトリック教会で最高位の崇敬対象である「聖人」に次ぐ称号だそうです。日本での列福式は、江戸時代初期のキリスト教徒迫害で殉教した信徒ら188人が認定されています。 右近は摂津国高山(現大阪府豊能町)出身。父の影響で12歳で洗礼を受け、21歳で高槻城主となりました。その後、豊臣秀吉に棄教を迫られ、拒んだため大名の地位を失い江戸幕府の禁教令で国外追放となり、フィリピン・マニラで熱病にかかり死去しました。 写真の銅像は4年前にマニラに行った時に撮影した右近の像です。



以前から高山右近について興味をもっていたことから、平成25年(2013)に友人とともに右近終焉の地であるマニラを訪ねました。そして翌26年が右近の四百年忌(仏式)にあたり、その遺徳を偲びカトリック高槻教会で顕彰ミサ、引き続き高槻現代劇場文化ホールでパネルディスカッション行われそれに参加しました。初めてミサというものを見て大変勉強になりました。その翌年27年が右近没後400年にあたり、日本のカトリック中央協議会が「高山右近は、地位を捨てて信仰を貫いた殉教者である」として、福者に認定するようローマ教皇庁に申請しました。同年6月18日、教皇庁の神学調査委員会が最終手続きに入ることを了承し、翌28年1月22日にフランシスコ・ローマ法王が認可し、昨日2月7日に大阪城ホールで列福式が執り行われました。列福式には、ローマ法王代理としてローマ法王庁列聖省長官のアンジェロ・アマート枢機卿がフランシスコ・ローマ法王の書簡を代読し、列福を宣言しました。 高山右近は天文22年(1553年)に摂津国三島郡高山庄(現在の大阪府豊能郡豊能町高山)出身の国人で三好長慶、のちに和田惟政、荒木村重に仕えた友照の嫡男として生まれました 。通称は彦五郎。右近は私的な名で、官位は大蔵少輔、諱は重友(しげとも)。 号を南坊と称しました。洗礼名はジュストで、ポルトガル語で「正義の人、義の人」を意味します。 父友照が大和国宇陀の沢城主であった頃、奈良で琵琶法師だったイエズス会修道士・ロレンソ了斎の話を聞いて感銘を受け、自らが洗礼を受け家族と家臣を洗礼に導いた時に右近も洗礼を受けました。右近10歳の時のことです。右近はジュストの洗礼名を得ました。なお、父の洗礼名はダリヨ、母の洗礼名はマリアでした。 高山親子は荒木村重の支配下で高槻城主となり、友照は当時21歳の右近に高槻城主の地位を譲り、天正4年(1576)、オルガンティノを招いて復活祭を行い、翌4年には1年間で4000人の領民が洗礼を受けキリシタンが70パーセント以上に達しました。自らはキリシタンとして教会建築や布教に力を注ぎ、領内の神社仏閣を破壊し神官僧侶は迫害を迫害しました。このことはのちの右近に大きな影響を与えました。 荒木村重が主君・織田信長に反旗を翻した時、右近は村重への忠誠を示すために妹と長男を人質に出してこれを翻意させようと村重と信長の間にあって悩み、尊敬していたイエズス会員・オルガンティノから「信長に降るのが正義であるが、よく祈って決断せよ」との助言を得ました。そして信長は右近が金や地位では動かないと判断し、右近が降らなければ畿内の宣教師とキリシタンを皆殺しにして教会を破却すると脅しました。右近は城内にあった聖堂にこもり祈り、ついに武士を捨てて信長に領地を返上することを決めて紙衣一枚で城を出て信長の前に跪きました。このことが荒木村重の敗北の一因となり、その功績が信長に認められ右近は再び高槻城主としての地位を安堵され2万石から4万石に加増されています。 天正10年(1582)6月に本能寺の変で信長が没すると、右近は羽柴秀吉(豊臣秀吉)の幕下にかけつけ山崎の戦いでは先鋒を務めて光秀を敗走させた功を認められて加増されました。また、本能寺の変後の動乱で安土城が焼けると安土のセミナリヨを高槻に移転し、大坂築城の際には大坂に教会を建るのに尽力しています。その後、右近は賤ヶ岳の戦い、小牧・長久手の戦いや四国征伐などにも参戦しています。 右近の影響を受けて牧村利貞・蒲生氏郷・黒田孝高などが洗礼を受けました。また、洗礼を受けませんでしたが、キリシタンに対して好意的であった細川忠興・前田利家も右近の影響を多分に受けています。それに対し、父友照の政策を継いだ右近は、領内の神社仏閣を破壊し神官や僧侶に迫害を加えました。現在、高槻は畿内であるにもかかわらずその周辺には古い神社仏閣の建物や仏像がほとんど残っていないという異常な状況になっています。領内の多くの寺社の記録には「高山右近の軍勢により破壊され、一時衰退した」などの記述があります。それに対し、ルイス・フロイスの『日本史』等のキリスト教徒側の記述では、あくまで右近は住民や家臣へのキリスト教入信の強制はしなかったが、その影響力が絶大であったために、領内の住民のほとんどがキリスト教徒となり、そのため廃寺が増え、寺を打ち壊して教会建設の材料としたと記されています。 播磨国明石郡に新たに領地を6万石与えられて船上城を居城とし、明石教会を建設しました。信長の死後豊臣秀吉もしばらくはキリシタン保護を継続しますが、まもなく九州征伐の途中でバテレン追放令を出し、キリシタン大名には苦しい状況となります。右近も棄教を迫られましたが、「現世においてはいかなる立場に置かれようと、キリシタンをやめはしない。霊魂の救済のためには、たとえ乞食となり、司祭たちのように追放に処せられようとも、なんら悔いはない」と答え、明石の領地を剥奪、追放され、小西行長に庇護されて小豆島や肥後国などに隠れ住み、のちに前田利家に招かれて加賀国金沢に赴き1万5,000石の扶持を受けることになりました。なお、小田原征伐では前田軍に属して従軍していいます。慶長19年(1614)、徳川家康によるキリシタン国外追放令を受けて加賀を退去し、大坂から船で長崎にに向かい、長崎から家族と共にマニラに送られる船に乗り、マニラに43日後の12月に到着しました。 右近はマニラでスペインの総督フアン・デ・シルバらから大歓迎を受けました。しかし、船旅の疲れや慣れない気候のため老齢の右近はすぐに病を得て、マニラ到着からわずか40日後である翌年の1月6日に63歳で亡くなっています。葬儀は総督の指示によってマニラ全市をあげてイントラムロスの中にあった聖アンナ教会にて、10日間という長期間で盛大に行われ、その亡骸は、イエズス会コレジオのサンタ・アンナ聖堂の近くに埋葬されました。のちに右近の遺骨はサン・ホセにあったコレジオの聖堂に移され、石棺の上には右近の画像が掲げられましたが、1767年、マニラのイエズス会が閉鎖され、土地と建物はマニラ大司教区の所有となり、右近の遺骨と画像は行方不明となり今日に至っています。現在、マニラのディオラ広場には高山右近像が立っています。また、右近の死後、その家族は日本への帰国を許され、石川県羽咋郡志賀町、福井市、大分市にその子孫が現存しています。 写真は、マニラのディオラ広場には高山右近像、カトリック高槻教会の高山右近像。
参考文献・中西裕樹編『高山右近』等



高山右近と茶の湯
茶人としての右近については多くの記録が残されていません。天正5年(1577)『津田宗及茶湯日記』にはじめて名が出ています。また天正12年(1584)の秀吉の茶会にも名を連ねています。若干の茶会記からは、若いころから利休の茶の湯に触れ、戦地に赴いたりと住まいを転々としてどのような状況にあってもそれぞれの地で茶会を行っています。道具については「侘助茶入」以外に唐物を使用した記録はなく、また特別な道具を使用した記録も残っていなく道具に対する執着心があまりなく、しかも侘びた道具を使用していました。また、茶室は二畳敷きで床無しの極めて質素で侘びた茶室を好んでいました。書状や逸話史料からは、右近が茶の湯に対して細かいこともおろそかにせず、常に真摯な態度で取り組んみ人から尊敬されるほど造詣が深かったようです。また、右近は利休の侘び茶を理解し、双方とも自分の信念を貫く強さを持ち合わせているという共通点がありました。なお、右近と利休の逸話に、秀吉がバテレン追放令を出した時、右近の才能を惜しみ利休を遣わせて棄教を促しました。右近は「主君の命令に背いても志を変えないのが真の武士である」と答えとあります。そこには『聖書』のマタイによる福音書16章の、 弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、人の子がその国と共に来るのを見るまでは、決して死なない者がいる。」 右近は武士であるとともに、キリシタンの信仰者であり、その信念がが根底にありこうした態度をとったのでしょう。 右近の生きた時代、茶の湯は武将にとり、教養の域を超え、政治的なのであり必須のものでした。またキリシタンである右近にとっては茶の湯はそれ以上の意味を持ていました。それはキリシタンの信仰とが融合したものであったようです。 イエズス会士ジョアン・ロドリゲスが書いた『日本教会史』に、 高山ジェスト、Tacayama Justo-彼は、キリシタンであることによってたいへん有名であるが、その信仰のために、二度追放され領国を失い、その二度目はフィリピーナス(フィリピン)に流され、その地で辛労によりより没したが、殉教の栄光を失わなかったと思われているーはこの芸道で日本における第一人者であり、そのように厚く尊敬されていて、この道に身を投じてその目的を真実に貫く者には、数寄sukyが道徳と隠遁のために大きな助けとなるとわかった,、とよく言っていたが、われわれもそれを時折彼から聞いたのである。それ故、デウスにすがるために一つの肖像をかの小家に置いて、そこに閉じこもったが、そこでは、彼の身についていた習慣によって、デウスにすがるために落ち着いて隠退することができた。 ジョアン・ロドリゲスは右近を「数寄」の第一人者であったとし、右近は「数寄」、すなわち茶室を祈りを行うための場とし、茶の湯が右近にとって道徳と隠遁のための最もよき助けとなる一つの方法として捉えられていたことがわかります。右近にとっての茶の湯は、俗事から離れて静かに祈りを捧げ神に思いいたす場であったのです。そうしたことから右近は第一人者といわれるほど茶の湯に打ち込んだのでしょう。そこで右近の茶の湯は利休の侘び茶の世界と同一のものではなく、キリシタンとしての霊性を深めるたものものであったといえるでしょう。なお、織田有楽斎の『喫茶余禄』に、「作りも思い入れも良いが、どこか清(きよし)の病いがある」とあり、ここにもキリシタン高山右近を見ることができます。 なお、イエズス会の宣教師は、早い時期から茶の湯に興味を示し、布教上の効用から修道院に茶室を設けることを勧めています。ちなみに『日本教会史』は、当時の日本の文化・風俗・習慣などが書かれており、そのなかに「数寄・suky」として、当時の茶の湯の世界が紹介されています。そしてジョアン・ロドリゲスはポルトガル人のイエズス会士でカトリック教会司祭。少年時代に来日し、天正5年(1577)に豊後でイエズス会に入りコレジオで教育を受けました。日本語の習得に才能を表し、通訳にとどまらず会の会計責任者(プロクラドール)として生糸貿易に大きく関与し、権力者との折衝にもあたり、のちににマカオに追放されました。その語学力から、秀吉や家康との外交交渉の通訳を行い、秀吉の絶大な愛顧を受けました。なお、右近とは朝鮮出兵の際に名護屋で出会っています。日本語の語学力を生かして『日本小文典』や『日本教会史』を編述しています。 最後に、肥後熊本藩主細川氏の家史である『綿考輯録(めんこうしゅうろく)』に、細川忠興のことばとして、 利休に結せ候箒を、高山右近がキリシタン国へ渡申候まで所持いたし、其羽箒は、上羽ばかりよくて、中ノ羽などは悪敷とおふせられ候 右近は利休から贈られた自作のの羽箒を後生大事にマニラにまで持っていきました。そこに右近の利休への思いを見ることができます。
参考文献『大航海時代叢書 ジョアン・ロドリゲス 日本教会史』、西村貞著『キリシタンと茶道』等
写真は大航海時代選書 ジョアン・ロドリゲス『日本教会史』上より



隠れキリシタン
以前、キリシタンにちなむある茶会で江戸時代の十字架がありました。実際手に取らせてもらいました。十字架は板にはめられた鋳物で、その横に蓋といっていいのかわかりませんがそれをピッタリはめる板があり、それを重ねると表面には仏像が嵌め込まれていました。まさに隠れキリシタンの遺物であると実感しました。キリシタンの禁教令が発令されたのちも、「転びキリシタ(転宗信徒)」には、転宗した後も何十年もの間放免されず獄死、またその親族であったがため連帯責任を問われた人たちがたくさんいました。このように江戸幕府はキリシタンに徹底した弾圧を行いました。 そしてこれは元禄8 年(1695)に改訂された禁教令が、 一、父母転ばざる以前の子は、幼少にて父母には なれるとも本人同前に立る事は、出生其まま 其父にても母にても功徳の水といふ者(洗 礼)をかけやり宗門になしかたむるによりて 本人同前に相立て候由申し伝え候事 一、父母転ばざる以前の子は、男女共に本人同前 也、孫より男子続き候時は、耳孫まで類族に 入るべし 一、転び候以後の男子続くの時は、玄孫まで親類 に入るべきこと 「耳孫」とは耳で聞くだけの遠い孫のことで5代先、玄孫は4代後の子孫のことです。キリシタンの信仰は家族単位で維持されるということで、キリシタンの子孫に対し想像を絶する弾圧を行いました。そうしたことから、江戸時代の半ばにはほんの一部を除きキリシタンはこの国から殲滅されたのです。まさに狂気の沙汰というほかありません。 以前から「十字」がついたものを何でもかんでもキリシタンに関連する品だとする風潮があります。それは大いなる誤謬だと思います。キリシタンの信仰に関するものを所持していただけでキリシタンの嫌疑をかけられ、とんでもない弾圧を受けるそんな時代に、そんな物騒なものを造る人や所持する人があったとは考えられません。十字の記号は洋の東西を問わず存在しているものです。十字文は生命とか日輪とか神聖などいろんなことを表す印しで、除災招福の呪符にも用いられてきました。また十字架上で処刑を行うのは何もヨーロッパに限ったことでなく日本でも行われていました。キリスト教ではイエスが贖罪の死を十字架で遂げたことにより、人類救済の犠牲の祭壇として深く尊敬の対象とされてきました。ちなみに高野山の徳川家の霊廟の石灯篭、徳川吉宗の墓石、三宝院の提灯、各地の妙見菩薩に十字文が用いられています。 皇室の祖先がユダヤ人であるとか、キリストの墓が青森にあるとか、実は源義経は衣川で死んだのではなくその後、大陸に渡りジンギスカンになったとかいう類と同様です。日本人はこの種の話しが大変好きなようです。まさに「牽強付会」以外の何ものでありません。あくまでフィクションとして楽しむのは問題無いと思いますが、それが真実であるとするのはとんでもないことです。当たり前のようにいわれていることをよくよく吟味しなければならないと実感す。 最後に十字がすべてキリシタンであるなら、島津家の「丸に十字」の紋はキリシタンの紋章であるということになります。そうであるなら島津家は江戸時代に改易になり、明治維新も無く、今の日本も当然存在しないです。
写真は隠れキリシタンの遺物と能勢妙見の寺紋提灯、島津家家紋「丸に十字」



織部灯篭
桃山時代、茶の湯の興隆により、新しく茶の湯の露地が生まれ、夜の茶会の為に露地の明かりとして、古社寺の石灯籠が利用されるようになりました。江戸中期の茶人 松本見休による有楽流茶法と点前伝授の書である『貞要集』によると庭に灯篭を取り入れたのは千利休が始まりとしています。実際、茶室の露地に積極的に灯篭を用いたのは古田織部であったとされているます。茶人の好みの灯篭も新しく創作されています。その代表的なものが織部灯篭があります。『古田織部正殿聞書』に、 直柱之本台石之有ハ悪シ、柱之本ヲ直ニ地掘入テ吉、トウロ惣之高サ見合能程也、低ク居ルハ心持吉、高サハ不定、掘入地形直ニシテ可掘居也 通常、灯篭は上部から、宝珠・笠・火袋・中台・竿・基礎・基壇から構成されます。織部灯篭は下方の基礎・基壇がなく地面に竿を直接生込んで設置します。こうしたことから一般的な社寺の燈籠に比べてやや小ぶりで、比較的地味で庭の状況に合わせて竿を地面に埋めて燈籠の高さを調整できることから茶の湯の露地の趣を深くするということから好んで使われています。なお、一部の人たちから、竿の部分の上部が横に張り出しているため従木の長いラテン式十字架とかT字型のエジプト十字架模していると解釈され、また竿の上部に十字の文様やアルファベットを組み合わせたような異形の文字記号が陰刻されていてそれをキリシタン関係の「IHS・ FILIUS、・ PATOLI」と見立てられ、また下方に立像をイエスであるとかバテレン(宣教師)、マリアなどの像を浮彫にしたものとし、キリシタンの礼拝の対象にされたものであるとされています。すべてこの竿がのちに述べるキリシタン灯篭であると見立てる根拠になっています。織部灯篭と呼ばれているいるものの、確かに織部の考案したものかどうかは定かではありません。一部の道具が利休好みや遠州好み、石州好みのようにのちに著名な茶人の好みに仮託されたもの同様のものかもしれません。ちなみに織部灯篭とよばれているものの最古の遺品は慶長20年(1615)銘の「凉庵織部灯篭(現国際証券蔵)」で、寛永21年(1645)銘の「北野天満宮三光門脇織部灯篭」や織部の弟子小堀遠州が作庭したとされる桂離宮の7基の織部灯篭などの比較的初期のものがあります。 大正末期から昭和の初期にかけて、一部の研究者や郷土史家によるキリシタン遺物の研究熱が高まり、織部灯篭に彫られた長身像がマントを羽織った宣教師に似ているとして、織部灯篭の一部を「キリシタン燈籠」と称するようになりました。そして現在、地方自治体で文化財指定ものが全国で21基の織部灯篭が「キリシタン灯篭」として文化財指定されています。 キリシタン灯篭の研究書として、美術史家の西村貞の『キリシタンと茶道』と松田重雄の『切支丹灯籠の研究』等があります。西村は織部灯篭の一部をキリシタン宗門と関係づけようと論証に努めています。また松田重雄も曖昧な論述でキリシタン灯篭であると主張していますが、スペイン・ポルトガルの関係史を専門とし南蛮文化研究家で歴史学者の松田毅一は、『キリシタン 史実と美術』でこれらの説を完全に論破しています。また『潜キリシタンと切支丹灯籠』の書評に日本のキリスト教・キリシタン史家の海老沢有道は、「一言にして云えばキリシタン研究が半世紀も逆行した観がある。全くひどい本が公刊されたものである。各頁誤謬、曲解、こじつけにみちており、それを指摘するだけで、逆に一冊の本ほど執筆せねばならない。(中略)従来の学問研究を理解し、吟味した形跡もなく、キリシタンの教理、信仰についても理解に欠けており、とに角恐れ入った著実である」と手厳しく酷評しています。古田織部がキリシタン大名と呼ばれていますが、妹は確かにキリシタンであったものの、織部自身はキリシタンであったのかどうかは定かではありません。ただし十字の入った黒織部の茶碗がキリシタンとの深い関係を示すものだとの指摘もあります。またいち早く南蛮文化の影響を受けいれた織部の斬新な現代的な美意識が茶の湯の世界に用いたともいわれています。そういうことからキリシタン灯篭が織部の好みとされたものと思われます。松田毅一は灯篭のデザインは中世以前からの仏教関係の古い石造文化財の影響を受け、記入されている記号は供養塔、墓標、庚申塔に刻まれているものが刻印されているようだといっています。そして日本のキリスト教関係者も日本の隠れキリシタン、または近代のキリスト教徒もキリシタン灯篭を信仰の対象にしていないとしています。実際、キリシタン灯篭を発見しては騒いでいた人たちは、まったくキリスト教とは関係ない人たちで、デザインがキリスト教っぽいからということかそのように主張したようです。その上、キリシタン灯篭と主張する人たちはそれを信仰したはずの地元のキリシタンの調査をしていません。信仰していた信者や子孫または子孫たちの口承が存在したということをもとに立証しない限りそれを肯定することはできません。ただし完全に否定することもできませんが…キリシタン灯篭がキリシタンの遺物であるという説はあくまでも信憑性の無い仮説でしかありません。実際、文化財指定を受けているキリシタン燈籠について調査した結果、その地域にキリシタンが存在したという程度の場合がほとんどであり、キリシタンとの関連は希薄だそうです。また福岡県朝倉市秋月の燈籠はキリシタンが所有していた可能性があるものとされていますが、礼拝に使用されていたという伝承や史料は全くないそうです。現在、日本全国に相当数のキリシタン灯籠があり、それを信仰の対象にしたのならそれに見合う数の隠れキリシタンがいたはずです。信教の自由が認められた現代日本でのキリスト教徒は人口の0.6%だそうです。ましてや厳しく取り締まられた江戸時代にどれだけの信者がいたのでしょうか。 『国史大辞典』にも大正末年頃からこれを隠れキリシタンの礼拝物とする説が生まれ、石燈籠研究専門家やキリシタン文化の専門学者も、キリシタン灯篭説は信じていないとしています。ところが現在もキリシタン灯篭説が世間に流布されたままで、教育委員会の文化財の説明板にも未だにキリシタン灯篭であると説明しているものもあります。実際、有力な根拠もないキリシタン灯篭説のみ取り上げて否定説を全く無視しているのは如何なものかと思います。せめて説明版に一言否定説もある旨を記入すればよいのではないないのでしょうか。こんなことでは平気で歴史や事実を曲解して恥を知らない国と同じことになってしまいます!



洛西バプテスト教会で行われた高山右近列福記念セミナーに参加しました。 最初に日本バプテスト連盟京都洛西教会杉野榮牧師が「キリシタン魔鏡が伝える信仰」というタイトルで講演され、実際に魔境を見せてくださいました。引き続き春日部福音自由教会名誉牧師、日本文化宣教協力会主主幹、表千家教授の高橋敏夫牧師が「よみがえる高山右近の信仰と茶の湯」というタイトルで、一昨日、大阪城ホールで行われた列福式で福者に認定された高山右近をテーマに話されました。大変、興味深い内容でとても勉強になりました。





聖フランシスコ・ザビエル
平成25年(2013)3月、茨木市千提寺の茨木市立キリシタン遺物資料館を訪れました。当資料館は千提寺・下音羽地区のキリシタン遺物を公開するために、千提寺地区から土地の提供を受け、茨木市によって建設された施設です。この地域はかって高山右近の領地でキリシタン信徒が多数住居していました。禁教後も隠れキリシタンとしてこの山奥の地で密かにその信仰を守り続けた人々がいました。大正8年(1919)教誓寺住職でキリシタン研究家の藤波大超が千提寺でキリシタン墓碑を発見し、翌年には東藤次郎氏の母屋屋根裏の梁に括り付けていた「あかずの櫃」の中から「聖フランシスコ・ザビエル像」はじめ「マリア十五玄義図」、「木製キリスト磔刑像」等を見つけ出しました。その後も下音羽地区の大神家や原田家などからもキリシタン遺物が発見されました。 ザビエルにも以前から興味があり、マカオにその右手を見に行き、平成26年(2012)ザビエルが日本に来るきっかけをつくった薩摩の人弥次郎との出会ったマラッカを友人とたずねました。ザビエルはその後の日本に多大な影響を与えた人物として前々から注目していました。 中学・高校の日本史教科書に参考資料として必ず掲載されている像として著名な「聖フランシスコ・ザビエル像」は、解説によると、 ザビエルがマントの下から両手を十字形に交錯して出し、その右手の3本指で軽く押さえている赤い心臓をかたどったものに、キリストを磔にした十字架がつきたてられていて、その十字架の上端には「I・N・R・I 」の4文字があらわされている。この4文字は、「ユダヤの王ナザレのゼスヌ」を意味する語の頭文字である。また、十字架のやや下の方には、耶蘇会(イエズス会)の紋章の略字I・H・S( 耶蘇、人類救済者の意味) が印されている。ザビエルの口から発しているサチス(SATIS) エスト(EST) ドミネ(DNE・・・) とあるなかで、「サチス エスト」というラテン語は、日本語では「十分なり主よ十分なり」ということを意味し、ザビエルは仏教徒の唱える念仏のように毎日、これを口にしたといわれている。 とあります。なお、現在この像は神戸市立博物館の所蔵になっています。 管理人の東さんというご夫人が親切にこの像が発見されたのちの逸話を話してくれました。それによると、神戸市の兵庫の名家の主人で育英商業学校の校長で、南蛮美術品を蒐集家であった池永孟氏が、長年熱望の的であったこの像を、藤波大超氏を通じて譲ってほしいと懇願してきたそうです。東藤次郎氏は先祖代々大切に守り伝えてきたものなので絶対に譲る気はなかったのだけれど、藤波氏の顔もあるので決して買わない値段ということで、当時のお金で2 万5 千円の高値をつけました。そうすれば池永氏もあきらめるだろうとの思いからだったそうです。ところが池永氏は垂水の別荘を処分してお金を作り、東氏も手放さざるをえなくなり、ついに池永氏はその悲願をかなえることになったとのことです。 なお、池長氏は「神戸のような国際大都市にして、美術館の一つも持たないということは、国民教養の程度も察せられて大きな国辱である」と考えて、自分で美術館を作り、コレクションを一般に公開しました。ところが戦争のためついに閉鎖し、戦後、コレクションの散逸を恐れ、美術館を神戸市に譲り現在の神戸市立博物館となっています。こうしたことから「聖フランシスコ・ザビエル像」は今日神戸市立博物館の所蔵になっているのです。 ちなみに心ならずも2 万5 千円もの大金を手にした東藤次郎氏は、先祖が命に代えてでも守り伝えた画像を手放した罪悪感からこのお金には決して手を付けず、未来永劫子々孫々に保存するようにと銀行に預けたそうです。その時の池永氏の證とその封筒が資料館の玄関脇にさりげなく額に入れて置かれていました。
その封筒の表には、
金貳万五千圓
ザビエル聖人遺物書類在中
金確一切使用を禁ず
裏面には、
賣付金貳万五千圓也
此金確子孫ニ継ぎて保存スル事一切使用を禁ズ
嗣者
東五作
昭和十年十二月十六日
と息子の五作氏が記しています。当時の東家の人々の思いを察しても余りあります。その後、この金は一切手を付けず守っていくのですが、昭和21 年(1946)の金融緊急措置令をはじめとする新紙幣(新円)の発行、それに伴う従来の紙幣流通の停止などに伴う通貨切替政策である新円切替により。驚くほど価値がなくなってしまったのだそうです。 前大阪大司教レオ池永潤氏はなんと2 万5 千円の大金をはたいて「聖フランシスコ・ザビエル像」を手に入れた池永孟氏のご子息だそうです。また、私たちにまことに親切に解説して下さり、また展観物の題簽にも記していない裏話を聞かせてくれたご夫人は、現東家夫人でした。 本当に不思議な縁を実感しました!
写真は茨木市立キリシタン遺物資料館、東家、聖フランシスコ・ザビエル像、千提寺地区で発見されたキリシタン遺物、キリシタン墓拓本




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