以心斎(いしんさい)が家元としての働きができなくなったため、新たに以心斎に養子を迎えることとなった。『日記抜録』の天保12年(1841)8月13日に、大綱の古稀の祝いに黄梅院を訪れた松斎が、表千家10代吸江斎の次男慈眼を以心斎の養子に迎えたい旨を話し、そのことを聞いて大綱は大層喜んでいる。そして松斎からこの養子縁組の取り持ちを依頼された大綱は、吸江斎の後見であった住山楊甫(すみやまようほ)を通じ短期間に精力的に周旋し、この縁談が順調に運んだようである。ところが、翌13年(1942)11月11日に慈眼が亡くなり、この縁組は立ち消えとなってしまった。千家には他に適切な人材がなく、『日記抜録』の天保14年(1843)7月1日に改めて持ち上がった縁談について記されている。それは新善法寺(しんぜんぽうじ)家の次男留丸との縁組であった。このたびも松斎が大綱に肝いりを依頼し、大綱はそれを諾うべない、不審庵に話しに行っている。またこの折、松斎は釣書を持参していて、大綱は日記にその写しを控えている。「父 新善法寺権僧正」とあり、留丸の父は新善法寺劭清(しょうせい)である。新善法寺家は石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)の社家の一つで、明治まで同宮の社務を司る最高位(現在の宮司)社務検校(しゃむけんぎょう)を代々つとめてきた三家(田中、善法寺、新善法寺)のひとつである。これらの家は代々子女を御所に入れ、公武の名家との婚姻を通じ、大層な権勢を誇る名家であった。留丸の父劭清は新善法寺家の18代目にあたり、天保9年(1838)社務検校になり、嘉永3年(1850)には僧正に転任し、嘉永7年(1854)に亡くなっている。この縁談が起きた時は権僧正であった。母は公家の五条條為徳(ごじょうためのり)の娘仲姫、兄は権少僧都澄清(ちょうせい)である。ちなみに澄清は慶応4年(1868)に還俗して南武胤(たけたね)と改名し、従五位下の叙任を受けている。当人の留丸は、武者小路千家入家の折には留之丞と名乗り、のちに方清、宗守と改名し、此中斎(しちゅうさい)と号している。なお武者小路千家と新善法寺家の関係は、新善法寺家が松斎の社中であったと考えられ、当時の『石清水八幡宮宮侍日記』によると、新善法寺家では茶の湯が盛んだったようで、留丸も武者小路千家入家以前に、武者小路千家の茶の湯に親しんでいたと思われる。
今回の縁談について『日記抜録』天保14年(1843)7月8日に、此中斎の養子の件につき、大綱は松斎や宗栄・以心斎と打ち合わせをし、その後も武者小路千家と黄梅院を盛んに行き来して打ち合わせをしている。同15年(1884)5月1日、得浅斎が黄梅院を訪ね、7月12日に入家することを伝えている。ところが翌2日、どのようなことがあったのかは不明であるが、この縁組に関する松斎の取り計らいが宜しくないとのことから、大綱は松斎に絶交書を与えている。ただし、入家は予定通り12日に行われている。12月23日、此中斎が大綱に家督相続したことを報告し、翌年の2月24日には以心斎が宗安、此中斎が宗守に改名した旨を伝えに行っている。なお「松平家譜」には、以心斎はまだ老年というわけではないが、近年、眼病のため不自由な身となり、高松での勤めを果たすことが困難であるとの趣旨が高松侯の耳に達し、十分に勤めていないが、「茶道格別之筋之者」ということで、此中斎と入れ替わることが許されている。この時、以心斎は18歳であったが、高松藩では21歳ということになっていた。なお同じく「松平家譜」の此中斎の項には、やはり「茶道格別之家筋」とのことから、まだ年齢的には不足でありながらも、以心斎に代わって、これまで通りの禄と役職を継承することを許可し、同日、正式に此中斎が宗守と改名したことが記録されている。
此中斎の家督相続にあたり、以心斎の時と同じく松斎はその後見をつとめて此中斎を支えている。襲名の記念に造られた道具の箱の甲に「此中斎家督之節贈之」と書付を行った飛来一閑作になる「一啜斎好折曲平棗写」や「一翁好炭斗写」・「直斎好亀香合写」が残されている。
その後、松斎から大沢宗二に此中斎の後見を交代するのであるが、詳細は不明であるが、「松平家譜」嘉永5年(1852)2月21日に(「登士録」では26日)、「茶道不向ニ在之其上心得方不宜由」ということで、此中斎は高松侯から永の御暇を出され、千家からは離縁されて実家に差し戻されている。そうしたことから現在、此中斎は武者小路千家の歴代には含まれていない。そのような事情から此中斎についての事績はほとんど残されておらず、松斎と此中斎に関する事柄として、嘉永2年(1849)3月6日に営まれた利休後妻の宗恩二百五十年忌をつとめ、同3年(1850)には、松斎が此中斎と共に平瀬士陽の口切茶事に招かれ、一方庵扁額と常什釜を持参した記録が残されている。
此中斎離縁後、武者小路千家は表千家から吸江斎の息子である一指斎を再養子として迎えている。そして、実家に戻った此中斎は、石清水八幡宮の社侍林祥晴(はやしよしはる)の養子となり、林清晴(はやしきよはる)と名を改めている。地域の自治を支えるリーダー的存在として活躍し、武者小路千家との交流もあり、明治19年(1886)1月には改めて一指斎に入門し、八幡の地で武者小路千家の茶の湯を教授しつつ以心斎や一指斎を支えている。
なお、この頃の松斎は、嘉永元年(1848)2月に梶木町の自宅が罹災し、同年9月に営まれた藤村庸軒百五十年忌にあたり、「つき上けに面影ありて窓の月」の発句短冊を西翁院さいおういんに奉納している(「庸軒遠慕帖」)。同3年(1850)8月、2年がかりの普請を終え新居に移り、9月11日から新席披露の茶事を行っている。
此中斎・林清晴 明治15年撮影 『男山で学ぶ人と森の歴史』より
此中斎の父新善法寺劭清の墓
新善法寺家の墓
新善法寺家の墓
一啜斎好折曲平棗写 此中斎在判
此中斎筆 「一啜斎好折曲平棗写」箱書
松斎筆 「此中斎家督之節贈之」
一翁好炭斗写
一翁好炭斗写 此中斎在判
此中斎筆 「一翁好炭斗写」
松斎筆 「此中斎家督之節贈之」
此中斎好 月ヶ瀬香合
此中斎好 月ヶ瀬香合在判
此中斎好 月ヶ瀬香合 箱書
松斎筆 此中斎好 月ヶ瀬香合箱書
直斎好亀香合写
直斎好亀香合写 此中斎在判
此中斎筆 「直斎好亀香合写」
松斎筆 「此中斎家督之節贈之」
此中斎筆 一行 「百福々々万々福」
以心斎 此中斎宛はがき
以心斎 此中斎宛はがき
一指斎 此中斎宛はがき
一指斎 此中斎宛はがき
此中斎・林清晴墓
此中斎・林清晴墓
此中斎・林清晴墓 「茶道門人」
松斎筆発句短冊 つき上けに面影ありて窓の月 西翁院蔵「庸軒遠慕帖」
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