鎌倉時代初期の公卿で歌人の藤原家隆(いえたか)の墓と伝えられる「家隆塚」が大阪市天王寺区夕陽ヶ丘町にあります。嘉禎2年(1236)に家隆は浄土教の教えである「日想観(じっそうかん)」を修するためにこの地に移り住みました。そして家隆はちぬの海(大阪湾)に沈む夕日をのぞみひたすら極楽往生を願うために夕陽庵(せきようあん)を建て、念仏三昧の日々を送りこの地で没したとされています。
契りあればなにわの里に やどりきて 波の入日を拝みつるかな
家隆がこの地で詠んだ和歌です。
不平等条約の改正に携わった明治の元勲睦奥宗光の実父伊達千広(だてちひろ)は紀州藩士で初代木津宗詮と懇意な仲でした。千広は本居大平(もとおりおおひら)に和歌を学び、紀州藩10代藩主徳川治宝(はるとみ)の信任をえて藩の重職を歴任しました。治宝の死後失脚し、紀州田辺(和歌山県田辺市)に9年間幽閉されました。文久2年(1862)に千広は紀州藩を脱藩して公武合体運動に参加し、維新後は敬愛した藤原家隆の大阪夕陽ヶ丘にある家隆の墓の傍に自得庵(じとくあん)を営んみ隠棲し自得と号しました。のちに東京の宗光のもとに身を寄せ、明治10年(1877)5月18日に亡くなります。享年76歳。通称は藤二郎。別に宗広。著作に史論書『大勢三転考』『余身帰(よみがえり)』『和歌禅話』などがあります。
遺言により家隆塚の近くに埋葬され、のちに宗光やその家族もこの地に埋葬されました。なお、現在は宗広や陸奥家一族は鎌倉寿福寺に改葬されています。現在は20才で亡くなった宗光の娘清の死を悼み等身大の地蔵尊と宗光に追慕の意を表す碑や千広の句碑が建てられています。ちなみに千広は「夕陽ヶ丘(大阪市天王寺区)」の地名の命名者です。 得浅斎の茶の湯の門人で書家で画家、そして跡見学園の創立者である跡見花蹊(かけい)の父重敬(しげたか)は、初代松斎と得浅斎の茶の湯の門下であり、千広の和歌の門人でもありましたした。そして得浅斎も松斎も千広と同じ紀州藩御仕入方に所属していました。なお、御仕入方とは、紀州藩内各地の産物を買いあげて諸国に販売する部署のことです。
得浅斎は勤皇の志が厚く、勤皇の志士たちと深い交わりがありました。松斎の実家である願泉寺の品を持ち出して金に替え、志士たちを支援したと伝えられています。そして千広の縁から得浅斎は息子宗光とも交流があり、宗光が得浅斎の門人加島屋から融資を受けるにあたり、千広が得浅斎に周旋してもらうようにと記した書状が国会図書館の憲政資料室にあります。
このような縁から、得浅斎は千広が家隆の墓に柵門を建てる時、その寄付の依頼を得浅斎が受け、10両の資金を平瀬家から調達しています。夕陽ヶ丘は得浅斎と伊達千広・陸奥宗光親子との関わりの地です。
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