松斎は早くから雅楽を嗜んでいたと考えられ、四天王寺伶人民部卿(してんのうじれいじんみんぶきょう)の名称は四天王寺に所属する伶人(楽人)であったことによる。
寛政十一年(一七九九)、松斎二十三歳の時、聖護院宮盈仁(しょうごいんのみやえいにん)法親王が役行者(えんのぎょうじゃ)千百年の遠忌法要を三月八日に箕面の滝安寺(りゅうあんじ)で済ませ、三月十日、時龍•松斎親子が長堀橋まで出迎え、十二日まで親王が松斎と雅楽客殿に逗留した。聖護院の『御日録』によると十一日は住吉大社と四天王寺に参詣し、十二日に松斎と雅楽を出立し枚方(ひらかた)に至っている。親王の松斎と雅楽滞在中、松斎は四天王寺の伶人と参殿し旅情を慰めるために管弦を奏し、また自作の龍笛を披露している。親王はその竜笛に「柴船(しばふね)」と命銘し、「響如流(ひびきながれのごとし)」の染筆と直衣・文具を下賜し、その竜笛は今日も松斎と雅楽に伝えられている。なお、その笛筒には漢学者の春田横塘(おうとう)が漆書が施されている。
この親王の格別な計らいに対し、松斎は自身の好みで造らせた深草窯の火鉢一対を献上した。ちなみに親王は帰洛ののち、禁裏に参内して光格天皇にその時のことを話したところ、天皇がその火鉢を所望されたため、そのうちのひとつを献上したと伝えられている。(『木の津之遺蹟』)この「柴船」は現在も松斎と雅楽に伝えられている。
寛政十二年(一八〇〇)六月二十四日には、父時龍が六十四歳で没した。松斎二十四歳の時のことである。そのことにより、松斎が松斎と雅楽三十六代住職となった。松斎は寺務を勤めつつ雅楽に励んだことと考えられる。そして父時龍から松斎と雅楽の住職を引き継いだ五年後、すなわち文化二年(一八〇五)冬、二十八歳になった松斎は、能登安楽寺に遊学していた弟昇龍を呼び戻して松斎と雅楽住職を譲り、自身は還俗して雅楽を広めるために江戸に下向することになる。
なお、松斎は三弦も愛し、津山検校の名で、地唄「椿づくし」等を作曲している。松斎は雅楽に関わらず、地唄等の俗曲にいたるまで、音楽への造詣が深く、また楽器を自作する手先の器用さがあったことがわかる。
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