top of page
執筆者の写真木津宗詮

隠れキリシタン1

 かつて高山右近やフランシス・ザビエルなどキリシタンにに縁があり、キリシタンに関する文献等を読んでいます。過日茶会で隠れキリシタンについて感たことがありました。

 寄付に高山右近の追善茶会ということでキリシタンに関する品が展観されていました。その中でに江戸時代の十字架がありました。実際手に取らせてもらいました。まことに貴重な体験でした。その十字架は木にはめられた鋳物で、その横に蓋といっていいのかわかりませんがそれをピッタリはめる板があり、それを重ねると表面には仏像が嵌め込まれていました。まさに隠キリシタンの遺物であると大いに実感しました。






 キリシタンの禁教令が発令されたのちも、「転びキリシタ(転宗信徒)」には、転宗した後も何十年もの間放免されず獄死、またその親族であったがため連帯責任を問われた人たちがたくさんいました。このように江戸幕府はキリシタンに徹底した弾圧を行いました。

 そしてこれは元禄8年(1695)に改訂された禁教令です。


一、父母転ばざる以前の子は、幼少にて父母にはなれるとも本人同前に立る事は、出生其まま其父にても母にても功徳の水といふ者(洗礼)をかけやり宗門になしかたむるによりて本人同前に相立て候由申し伝え候事

一、父母転ばざる以前の子は、男女共に本人同前也、孫より男子続き候時は、耳孫まで類族に入るべし

一、転び候以後の男子続くの時は、玄孫まで親類に入るべきこと


「耳孫」とは耳で聞くだけの遠い孫のことで5代先、玄孫は4代後の子孫のことです。キリシタンの信仰は家族単位で維持されるということで、キリシタンの子孫に想像を絶する弾圧を行いました。そうしたことから、江戸時代の半ばにはほんの一部を除きキリシタンはこの国から殲滅されたのです。

 以前から茶の湯では、「十字」がついたものを何でもかんでもキリシタンに関連する品だとする風潮があります。それは大いなる誤謬です。キリシタンの信仰に関するものを所持していただけでキリシタンの嫌疑をかけられ、とんでもない弾圧を受けるそんな時代に、そんな物騒なものを造る人や所持する人があったとは考えられません。十字の記号は洋の東西を問わず存在しているものです。十字文は生命とか日輪とか神聖などいろんなことを表す印しで、除災招福の呪符にも用いられてきました。また十字架上で処刑を行うのは何もヨーロッパに限ったことでなく日本でも行われていました。キリスト教ではイエスが贖罪の死を十字架で遂げたことにより、人類救済の犠牲の祭壇として深く尊敬の対象とされてきました。ちなみに高野山の徳川家康の霊廟の石灯篭た、徳川吉宗の墓石、三宝院の提灯、各地の妙見菩薩に十字文が用いられています。



 皇室の祖先がユダヤ人であるとか、キリストの墓が青森にあるとかは、実は源義経は衣川で死んだのではなくその後大陸に渡りジンギスカンになったとかいう類と同様です。日本人はこの種の話しが大変好きなようです。まさに「牽強付会」以外の何ものでありません。あくまでフィクションとして楽しむのは問題無いと思いますが、それが真実であるとするのはとんでもないことです。今回、当たり前のようにいわれていることをよくよく吟味しなければならないと実感しました。

 最後に十字がすべてキリシタンるであるなら、島津家の「丸に十字」の紋はキリシタンの紋章であるということになります。そうであるなら島津家は江戸時代に改易になり、明治維新も無く、今の日本も当然存在しいですね。














閲覧数:196回0件のコメント

最新記事

すべて表示

Comments


bottom of page