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執筆者の写真木津宗詮

高山右近と茶の湯

 茶人としての右近については多くの記録が残されていません。天正5年(1577)『津田宗及茶湯日記』にはじめて名が出ています。また天正12年(1584)の秀吉の茶会にも名を連ねています。若干の茶会記からは、若いころから利休の茶の湯に触れ、戦地に赴むく時も、住まいにいても、どのような状況にあってもそれぞれの地で茶会を行っています。道具については「侘助茶入」以外に唐物を使用した記録はなく、また特別な道具を使用した記録も残っていません。そうしたことから道具に対する執着心があまりなく、しかも侘びた道具を主に使用していたようです。茶室は二畳敷きで床無しの極めて質素で侘びた茶室を好んでいました。書状や逸話史料からは、右近が茶の湯に対して細かいこともおろそかにせず、常に真摯な態度で取り組み、人々から尊敬されるほど造詣が深かったようです。また、右近は利休の侘び茶を理解し、双方とも自分の信念を貫く強さを持ち合わせているという共通点がありました。なお、右近と利休の逸話に、秀吉がバテレン追放令を出した時、秀吉は右近の才能を惜しみ利休を遣わせて棄教を促しました。右近は「主君の命令に背いても志を変えないのが真の武士である」と答えとあります。そこには『聖書』のマタイによる福音書16章の、  弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負っ

 て、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため

 に命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失った

 ら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。人の子

 は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いる

 のである。はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、人の子がその国と共に

 来るのを見るまでは、決して死なない者がいる。」 右近は武士であるとともに、キリシタンの信仰者であり、その信念がが根底にあったことからこうした態度をとったのでしょう。  右近の生きた時代、茶の湯は武将にとり、教養の域を超え、政治的なものであり必須のものでした。またキリシタンである右近にとっては茶の湯はそれ以上の意味を持ていました。それはキリシタンの信仰とが融合したものであったようです。イエズス会士ジョアン・ロドリゲスが書いた『日本教会史』に、  高山ジェスト(Tacayama Justo-)彼は、キリシタンであることによってたいへん有名で

 あるが、その信仰のために、二度追放され領国を失い、その二度目はフィリピーナス(フ

 ィリピン)に流され、その地で辛労によりより没したが、殉教の栄光を失わなかったと思

 われているーはこの芸道で日本における第一人者であり、そのように厚く尊敬されてい

 て、この道に身を投じてその目的を真実に貫く者には、数寄(suky)が道徳と隠遁のため

 に大きな助けとなるとわかった,、とよく言っていたが、われわれもそれを時折彼から聞

 いたのである。それ故、デウスにすがるために一つの肖像をかの小家に置いて、そこに閉

 じこもったが、そこでは、彼の身についていた習慣によって、デウスにすがるために落ち

 着いて隠退することができた。 ジョアン・ロドリゲスは右近を「数寄」の第一人者であったとし、右近は「数寄」、すなわち茶室を祈りを行うための場とし、茶の湯が右近にとって道徳と隠遁のための最もよき助けとなる一つの方法として捉えられていたと記しています。右近にとっての茶の湯は、俗事から離れて静かに祈りを捧げ神に思いいたす場であったのです。そうしたことから右近は第一人者といわれるほど茶の湯に打ち込んだのでしょう。そこで右近の茶の湯は利休の侘び茶の世界と同一のものではなく、キリシタンとしての霊性を深めるたものものであったといえるでしょう。なお、織田有楽斎の『喫茶余禄』に、「作りも思い入れも良いが、どこか清(きよし)の病いがある」とあり、ここにもキリシタン高山右近を見ることができます。  なお、イエズス会の宣教師は、早い時期から茶の湯に興味を示し、布教上の効用から修道院に茶室を設けることを勧めています。ちなみに『日本教会史』は、当時の日本の文化・風俗・習慣などが書かれており、そのなかに「数寄・suky」として、当時の茶の湯の世界が紹介されています。そしてポルトガル人のイエズス会士でカトリック教会司祭のジョアン・ロドリゲスは、少年時代に来日し、天正5年(1577)に豊後でイエズス会に入りコレジオで教育を受けました。日本語の習得に才能を表し、通訳にとどまらず会の会計責任者(プロクラドール)として生糸貿易に大きく関与し、権力者との折衝にもあたり、のちににマカオに追放されました。その語学力から、秀吉や家康との外交交渉の通訳を行い、秀吉の絶大な愛顧を受けました。なお、右近とは朝鮮出兵の際に名護屋で出会っています。日本語の語学力を生かして『日本小文典』や『日本教会史』を編述しています。  最後に、肥後熊本藩主細川氏の家史である『綿考輯録(めんこうしゅうろく)』に、右近が利休から贈られた自作の羽箒を後生大事にマニラにまで持ったと細川忠興の言葉が記されています。そこに右近の利休への思いを見ることができます。  参考文献『大航海時代叢書  ジョアン・ロドリゲス 日本教会史』、西村貞著『キリシタンと茶道』等




   大航海時代選書  ジョアン・ロドリゲス『日本教会史』上より

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