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執筆者の写真木津宗詮

5月9日 稽古場の床2

本日の自宅稽古場の床に春日潜庵(せんあん)賛になる世継寂窓(よつぎじゃくそう)粽図を掛けました。花はあやめを胡銅熨斗形花入。

君不見、懐沙孤忠、誰能儔、況又独清

照千秋、祀典長伝、端午節、海外尚想楚江流、

又不見、愛宕山上連歌客、在手茭粽、駢茭食、

忽顧座上、呼人問本能寺下溝幾尺、倭漢人

臣忠邪蹝粽耶、於汝関係重、今、題此図感為頻、又、要吾党有択於人倫

 丁巳秋三五之翌 潜庵専(印)

君見ずや。懐沙の孤忠、誰か能く儔(たぐい)せん。況や又、独り清く千秋を照し、祀典(してん)もて長く伝え、端午の節、海外に尚楚江の流れを想うをや。又見ずや愛宕の山上、連歌の客、茭粽(ちまき)手に在り、茭(こう)を駢(あわ)せて食らうに、忽ち座上を顧み、人を呼びて本能寺の下の溝は幾尺なるかを問うを。倭漢の人臣の忠邪の蹝(あと)は粽なりや。汝に於いて関係重し。今、此図に題して感ずること頻(しきり)と為す。又、吾が党に人倫において択(えら)ぶこと有るを要(もと)む。

 丁巳秋三五之翌 潜庵専(印)


君は見ないのか。石を抱いて湖に身を投じた孤独の忠臣・屈原のような人が他にいようか。ましてや、独りその清らかな精神が千秋を照らし、祭典によって長くその名が伝えられ、端午の節句には海外から人々が屈原の身を投じた楚江の流れのことを想うということを。また君は見ないのか。愛宕山の上で、連歌の会に出席した明智光秀が、手にした粽を皮ごと食べると、突然、振り返って人を呼び、本能寺の下の溝の深さはいかほどかと問うたことを。和漢の人臣の忠と邪を象徴するのが粽なのであろう。そなたとの関係も深く、今この図に書きつけても感ずることがしきりで、また門下の者に人の道において選ばれるような者がいてもらいたいものだ。

楚の屈原は楚王を必死で諫めましたが受け入れられず、絶望して5月5日に汨羅江(べきらこう)に入水自殺しました。粽は屈原の無念を鎮めるために人々が栴檀の葉に飯を五色の糸で縛って川に投げ込むようになったのがそのいわれとされています。頼山陽の『日本外史』には愛宕山での連歌の会で、いよいよ大事を決行するということで、平静を失った明智光秀が手にした粽を皮のまま食べ、本能寺の濠の深さを尋ねたとあります。それらのことを踏まえて、粽に和漢の忠と邪を見ています。なお潜庵は安政三年(1857)の8月16日に着賛したと記しています。

春日潜庵は幕末から明治初期の儒学者で政治家です。梁川星巌、頼三樹三郎、西郷隆盛らと国事に奔走し、安政の大獄で永押込に処せられました。のちに赦され、維新後、初代奈良県知事に就任し、退官後は学を講じました。 世継寂窓は京都の豪商で絵に優れ、和歌、連歌、茶道などを嗜みました。上田秋成、村瀬栲亭、与謝蕪村、円山応挙、松村呉春らとも交流があり、相国寺113世大典禅師の寿像を描いています。

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