大徳寺169世の天祐紹杲(てんゆうじょうこう)の筆になる『碧巌録』第二十一則の「本則」です。
蓮華
僧問智門、蓮
花未出水時
如何、智門云、
蓮花、僧云、出
後如何、門云
荷葉
前龍寶
天祐叟
應人求
書(印)
僧、智門に問ふ、蓮花未だ水を出でざる時如何。智門云く、蓮花。僧云く、水を出でて後如何。門云く、荷葉。
ある僧が智門和尚に尋ねました。「蓮の花が未だ水から姿を覗かせないとき、その本質は何物ですか」と。智門和尚は「蓮の花だ」と答えました。また僧は尋ねました、「水面に姿を現した後はどうなのですか」と。智門和尚は答えました、「それも蓮の花だ」。
智門和尚は智門光祚といい、『碧巌録』の編者である雪竇重顯の師に当たります。
ある時、智門和尚に修行僧が「蓮の花がまだ水面に姿を現さないときに、それは如何なる存在ですか」と問いました。蓮は古来仏教では仏の叡智や慈悲の象徴とされ、僧の問いかけの根本は「仏の教えが未だ地上に説かれる以前、仏教とは何であったのですか」という意味合いがあるそうです。それに対して智門和尚は「それは蓮の花だ」と答えました。水面に現出する以前に、そこに既に花は咲いているということです。このことは久遠の昔から既にある蓮華であるということです。未だ芽の出ない植物の種に、既に永遠不滅の花の「理念(物質としての花ではない)」が花開き、形なき形を形成しているということです。物質の奥、肉体の奥に存在する霊妙極まりない完全なる「蓮華」が、時間と空間を超越して咲き誇っているのです。続いて僧は「では蓮の花が水面で花咲かせた後は、どうなのですか」と問いました。いいかえると「仏の教えが地上に顕現した後、仏教とは何ですか」ということだそうです。これについて智門和尚は「それもまた蓮の花だ」と答えました。
解説書によるとこのような具合です。私自身も十分理解できず、ただ単にご紹介するだけです。ご容赦ください。
関西では一般的にお盆はひと月遅れの8月にお祀りをします。13日に迎火を焚いてお精霊さんをお迎えし16日の送火でお送りします。
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