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執筆者の写真木津宗詮

野点



 天正15年(1587)、豊臣秀吉が豊後(ぶんご)の大友宗麟(おおともそうりん)の懇望により、当時、大友氏を脅かしていた薩摩(さつま)の島津義久(しまづよしひさ)の征伐に九州に出兵した。まもなく義久は無条件降伏をし、秀吉はその帰路筑前箱崎(ちくぜんはこさき)に赴き、筥崎宮(はこざきぐう)(筥崎八幡宮)に布陣した。この時、利休と息子の紹安(じょうあん)(道安(どうあん))も秀吉に随行した。ちなみに秀吉の箱崎滞在は、戦乱により焼け野原となった博多の町の復興が目的で、それは「太閤町割(たいこうまちわり)」という都市計画であった。ちなみに、博多は古来日本一の国際貿易港で、当時は中国、朝鮮、琉球、東南アジア諸国との交易の窓口であり、秀吉の朝鮮出兵の足がかりであり、兵站基地としてまことに重要な町であったのである。なお、秀吉は宣教師コエリヨの持ち船フスタ号に乗って大坂から博多に乗り込んでいる。


 筥崎宮は式内社で筑前国一宮(ちくぜんのくにいちのみや)、旧官幣大社(かんぺいたいしゃ)で、宇佐市の宇佐八幡宮(うさはちまんぐう)と京都の石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)とともに日本三八幡宮のひとつとされ、海上交通・海外防護の神として信仰されている。元寇(げんこうの際には亀山上皇(かめやまじょうこう)が「敵国降伏(てきこくごうぶく)」を祈願し、その時の勅額が楼門に掛けられていることで有名である。

 『利休大辞典』によると、秀吉が筥崎宮に布陣したのが6月3日で、利休は6月10日以前に宇治の新茶を携えて従軍している(「6月10日付、織田長益・有楽斎書状」)。なお、この時、利休は筥崎宮に燈籠(重要文化財)を寄進し、現在も本殿脇に据えられている。

6月14日に筥崎宮の燈籠堂(とうろうどうで、神屋宗湛(かみやそうたん)・島井宗室(しまいそうしつ)・柴田宗仁(しばたたそうじん)ら博多の有力町衆を招く昼会を開いている。茶席は茅葺(かやぶきで青茅を壁にした深三畳の数寄屋であった。そこで白地金襴(しろじきんらん)の袋に備前肩衝の茶入、木地の釣瓶水指、楽茶碗に折撓(おりため)茶杓、面桶(めんつう)建水、引切蓋置といった利休好みの道具組で濃茶を点てている。紹安は利休以上にわびた風情の苫葺とまぶき、青松葉の壁で二畳半の席で彼らを招いている。なお、その燈籠堂は明治の神仏分離ののち、筥崎宮の隣地の恵光院えこういんに現在は移築されている。

 またこの従軍の折、日付は定かでないが『南方録』に箱崎の千代の松原で初めて野点をしたと記されている(熊倉功著『南方録』)。


 筑前ノ箱崎松原ニテ休ノハタラキニ、松陰ナルユヘ松葉ヲカキヨセ、サハサ 


 ハと湯ヲワカ、ワキ立タル松風ノ一声、煙ノ立ノボルテイ思白シトテ、殿


 下其ノチ野遊ノ御時ハ、タビタビ、休ニモ、宗無、宗及ニモ、カノフスベ茶


 ノ湯ヲ出シ候ヘト被仰シヨリ、皆人フスベ茶湯ト云コト也


箱崎の松原での利休の茶の湯の催しに、松陰で落松葉を掻き寄せてシュンシュンと湯を沸かして、その煮え音と松風をわたる風のハーモニーと立ち上る煙の様がまことに風情のある趣向の会であった。それ以来、豊臣秀吉は野遊びのたびごとに利休にも住吉屋宗無(すみよしやそうむにも津田宗及つだそうぎゅうにもフスベ茶の湯をするようにと命じたので、人々はこれをフスベ茶の湯というようになってしまった。「フスベ茶湯」というのはクスベ(燻べ)のことで、松葉を焼いて煙を立てて茶の湯をすることでる。

 なお、現在、九州大学医学部構内の一角に、野点発祥の地として「釜懸の松」の記念碑が建てられている。「利休居士三百年記念碑」と「利休居士四百年記念碑」、「利休居士點茶」と刻まれた石碑と二本の松が植えられている。その説明板には、この松原で黒田如水(くろだじょすいの叔父である小寺休夢(こてらきゅうむらと茶会を開いた際、同席した利休が秀吉の命で松の枝に鎖を吊して雲龍うんりゅうの小釜をかけ、白い砂浜の上に散らばっていた松葉を焚いて茶を点て、松葉から立ち上るくすんだ煙の趣ある様子が、たいそう茶会に風情を添えたとしるしている。そしてここを野点発祥の地としてる。

  同じく『南方録』に野点の心構えが記されている。


 野ガケナドハ定リタル法ナケレトモ、根元ノ格ハ、一々ソナハラズシテナリ


 ガタシ、第一景気ニウバハレテ茶会シマヌモノ也、別而客ノ心モトマルヤウ


 ニスル本意也、夫故、道具モ別而秘蔵ノ茶入ナドヨシ、大善寺山ニテハ、尻


 フクラ茶箱ニ仕込レシ也、能々勘弁スベシ、器物ナトハ水ススギテサヤカニ


 スルヲ第一トス、興ヲ催シ過候ヘバ、雑席ノヤウニナリ、ウトウトシケレバ


 ハルル也、ヨクヨク功者ノ所作ナラデハ成ガタシ



野ガケには決まった法はないが、根本の骨組みは一つ一つそなわっていなければできないものである。第一周りの景色に心を奪われて茶会がしみじみしたものにはならない。特に客の心も集中するようにするのが本義である。だから道具も特に秘蔵の茶入などがよく、大善寺山(だいぜんじやま)では尻膨(しりぶくら)の茶入を茶箱に仕組んで使った。よくよく考えてわきまえなければならない。器物などは水ですすいでさわやかにするのを第一にする。興に乗り過ぎと雑談の席のようになり、よそよそしいと周りの景色に気をうばわれる。よほどの功者でなければできないものである。

 「野ガケ(野駆け)」とは野外で行われる遊びのことで、ここでは野点のことをいっている。今日、桜や紅葉の好気に野外でその風情を楽しみつつ茶を喫するものとして野点が行われている。利休は野点がとても難しい茶の湯であるとしている。周りのすばらしい景色に心を奪われ、茶の湯に集中できなくなるので、特に道具は秘蔵の一点を用い景色に負けないようにしなければならないと主張している。現在の野点はどちらかというと軽い道具の取り合わせで、周りの景色を楽しむことに主をおいたものとなっているようである。

 『南方録』の滅後には下鴨神社の糺(ただす)の森で催した野点のことを記している。箱崎では松の枝に釜を吊るしたが、糺の森では瀬見(せみ)の小川の流れの近くに三本の竹を組みそこに釜を釣り、小川の水を使って水指なしの趣向であったとある。野点には定められた作法がある訳でなく、臨機応変にその場の材料を用いて工夫しなければならない。そして「一心ノ所為ニシテ、手ワザノコトニテハナシ」と心を一つに集中させて点前をし、それは決して手先の所作ではなく、型を忘れてその場に適した自由さが必要であるとしている。そうしたことから野点は本当に難しいものであり、真の達人でなれれば為せない技であると説いている。




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