天正19年(1591)利休は突然秀吉の逆鱗に触れ、堺に蟄居を命じられました。弟子である前田利家や、古田織部、細川忠興らの大名たちが助命に奔走しますが適わず、改めて京都に呼び戻され切腹を命じられます。そして2月28日に聚楽屋敷内(現、晴明神社)で切腹して果てました。享年70。切腹に際しては、弟子の大名たちが利休奪還を図るおそれがあることから、秀吉の命令を受けた上杉景勝の軍勢が屋敷を取り囲んだと伝えられています。死後、利休の首は大徳寺三門上の木像に踏ませ、一条戻橋で梟首されました。この木像は利休の賜死の一因ともされています。
昭和15年に三千家施主により営まれた利休居士三百五十年遠忌法要の導師を勤めた大梅窟の香語です。花は利休とゆかりの深い菜花を竹尺八花入に入れました。
利休居士三百五十
遠年諱香語
建溪天地了玄機
抗節曷従権者威
三百五十春一鼎
響高末後力圍希
大徳晦巌(印)
建溪の天地玄機(げんき)を了(りよう)し
抗節曷(なん)ぞ権者(けんじや)の威に従う
三百五十春一鼎(いってい)
響は高く末後力圍希(りきいき)
遠忌法要は大徳寺法堂で催されました。そして表千家即中斎、裏千家淡々斎、武者小路千家愈好斎により献茶が、また、法要の実況放送も行われました。当時、いかに茶道が広く拡がっていたかが分かります。
導師を勤めた大梅窟は、大徳寺489世で、円覚寺の釈宗演老師に参じその法を嗣ました。その後、品川東海寺の住職となり、昭和5年には円覚寺派管長、同10年に大徳寺派第8代管長、並びに僧堂師家に就任しています。昭和21年に71歳で亡くなっています。
大徳寺は五摂家筆頭の近衛家の菩提寺で、歴代の廟所も同寺にあります。ある法要で、時の内閣総理大臣で、公爵の近衛家当主文麿と些細な行き違いがありました。その時文麿に向かって一喝したという逸話が伝えられています。筋の通らないことがあれば、内閣総理大臣であろうが、公爵であろうが、大檀越であろうが、そのような社会的地位など全く歯牙にもかけない、まことに豪胆な気概のある老師だったそうです。
この香語の二行目の「抗節曷従権者威」に書かれた利休居士の権力者にたいする姿勢や、梁の武帝に「無功徳」と答えた達磨大師、近衛文麿を一喝した大梅窟。いずれもその気概に通じるものがあるように思います。
写真は大梅窟頂相、法要当日の祭壇、濃茶点前をする表千家即中斎、薄茶点前をする裏千家淡々斎、炭点前をする武者小路千家愈好斎、三千家宗匠、法要の参列者、法要の実況放送、不徹斎揮毫になる聚楽屋敷跡石碑(現、晴明神社)、晴明井、一条戻橋
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