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執筆者の写真木津宗詮

天神祭

昨為北闕被悲士

今作西都雪恥尸

生怨死歓其奈我

今須望足護皇基

御宸翰賛写

前大徳文渓叟書(印)

昨(きのう)は北闕(ほっけつ)に悲しみをこうむる士となり

今(きょう)は西都(せいと)に恥を雪(すす)ぐ尸(かばね)となる

生きて怨み死して歓びそれ我をいかにせん

今はすべからく望み足りて皇基(こうき)を護るべし

昨日は都において、悲しみに沈んだ人間であったが、今日は大宰府において、屍(しかばね)をさらす恥を雪ぐことになる。生きて恨み、死んで喜ぶ我をどのようにしょう。今は天皇が国家を統治することを、守護することを望むべきだろう。

文渓宗郁賛三井高福画天神図です。

『太平記』巻十二に、

一条院より正一位太政大臣の官位を賜らせ玉ふ。勅使安楽寺に下て詔書を読上ける時天に声有て一首の詩聞へたり。昨為北闕蒙悲士。今作西都雪恥尸。生恨死歓其我奈。今須望足護天皇基。其後よりは、神の嗔も静り国土も穏也。偉矣、尋本地、大慈大悲の観世音、弘誓の海深して、群生済度の船無不到彼岸。

一条院より、正一位太政大臣の官位を贈ることにしました。伝達の勅使が安楽寺に向かい、詔書を読み上げている時、天から声があり、一首の詩として聞こえました。昨為北闕蒙悲士。今作西都雪恥尸。生恨死歓其我奈。今須望足護天皇基。このことがあってからは、神の怒りも鎮まり、国土も安定しました。なんともすばらしいことではないでしょうか、仏や菩薩を尋ねてみれば、広大にして、深遠なる慈悲の観世音菩薩がお持ちの、衆生救済の願いは、深く大きなもので、救済するため衆生を乗せた舟が、浄土に到達しないことなどありません。

とあります。建武の新政がなり後醍醐天皇に公卿より大内裏造営の提案があり、地頭、御家人らから費用を徴収し、実施することになりました。内裏の説明が延々と続きます。かって内裏が何度も火災に遭っていますが、その原因の一つに、菅原道真の祟りのせいだと考えられ、道真の出世と没落、藤原時平の陰謀、そのため起こる不思議な公卿、朝廷の不幸、内裏の火災などが語られます。そして、その祟りを鎮めるために一条院が勅使を派遣し、正一位太政大臣の官位を贈りました。するとこの七言絶句がが天より聞こえ、その後、道真の怒りも鎮まり、国土も安定したということが書かれています。文渓宗郁はこの詩が書かれた御宸翰の画賛より写したと記していて、その当時にはその軸が存在していたと考えられます。

文渓宗郁(ぶんけいそういく)は大徳寺465世で安政5年(1858)に開堂をし、正受院16世で、明治16年(1883)に76歳で没しています。

三井高福(みつい・たかよし)は三井家第八代当主で、十三代八郎右衛門を称しました。王政復古ではいち早く新政府への協力を表明、朝廷に巨額の献金を行い、新政府の政商筆頭となりました。三井銀行・三井物産を興して三井財閥形成の基礎を固めました。明治18年(1885)に78才で没しています。

7月25日は日本三大祭(他は、京都の祇園祭、東京の神田祭)の一つ、大阪天満宮の天神祭の本宮です。25日の本宮の夜は、大川(旧淀川)に多くの船が行き交う船渡御(ふなとぎょ)が行われます。御神霊が乗る御鳳輦が、船で御旅所に向かう際に、講社の供奉船、神をお迎えする御迎船、協賛団体や市民船などの奉拝船、文楽船や落語船などの列外船等が合流し、航行する船は100隻あまりもあるそうです。神様にご覧頂くために「奉納花火」が総数5000発打ち上げられます。

3年前に大阪の社中の招待で奉拝船に乗せてもらいました。催太鼓や神楽や囃子、みごとな花火、同じ時期の祭ですが祇園祭とは異なる心意気と熱いエネルギーを感じました。まさに京都と大阪の違いを実感しました。

美味しい弁当にビールをいただき堪能しました。ただし温暖化のためか水の上でありながらとても暑く、花火の下では煤が降ってくる。なんといえばいいのか…

今年も皆さんがんばってください!


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