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放生会

9月15日は石清水八幡宮の放生会(石清水祭)でした。

放生会とは魚や鳥獣を野に放し、殺生を戒める法会です。『金光明最勝王経』長者子流水品には、釈迦仏の前世であった流水(るすい)長者が、大きな池で水が涸渇して死にかけた無数の魚たちを助けて説法をして放生したところ、魚たちは三十三天に転生して流水長者に感謝報恩したという本生譚が説かれています。中国天台宗の開祖智顗が、この流水長者の本生譚によって、漁民が雑魚を捨てている様子を見て憐れみ、自身の持ち物を売っては魚を買い取って池に放したことが放生会の始まりとされているそうです。のちにわが国では神仏習合によって神道にも取り入れられました。

石清水祭は清和天皇の貞観5 (863)の旧暦の8月15日に「石清水放生会」と称し、八幡大神が男山の裾を流れる放生川のほとりに臨んで魚鳥を放ち「生きとし生けるもの」の平安と幸福を願う祭儀として始められました。そしてこの放生会が勅祭として斎行されたのは、天暦2年(948)の勅使差遣に始まりす。祭典は、15日午前2時、山上・本殿で鳳輦(神輿)3基に3座の神霊を奉遷する儀式から始まり、同3時には本殿を出発、約500人の供とともに山麓へと下り、絹屋殿に着御したのち勅使以下の奉迎を受け頓宮に入御、次いで献饌・供花・奉幣・牽馬など古儀による奉幣祭が厳修されたのち、放生川にて魚鳥を放つ放生行事が行われ、鳳輦は同日夕刻、山上へと還幸します。なお、明治元年(1868)の神仏分離により神社での仏教的行事が明治政府によって禁止され、石清水八幡宮の放生会は仲秋祭や石清水祭に改められました。

江戸時代になると放生会は民衆の娯楽としての意味合いが強くなりました。文化4年(1807年)には富岡八幡宮の放生会例大祭に集まった参拝客の重みで永代橋が崩落するという事故も記録されています。神社や寺院の近隣の河川で行われるところもあり、亀屋から客が買って川に放した亀を、亀屋が再び捕まえてまた新たな客に売るという商売も行われていました。現在も台湾やタイ、インドでは放し亀屋や放し鳥屋といった商売が存在するそうです。

香川景樹「放生会」の詠草です。

 放生會

魚鳥の鰭に

翅に照月の

光をさへも放ち

けるかな

      景樹

魚鳥の鰭(ひれ)に翅(つばさ)に照月の

光をさへも放ちけるかな

石清水八幡宮の放生会は旧暦8月15日、すなわち仲秋の名月の夜に行われていたことを踏まえて、月が光を放ち魚の鰭、鳥の羽を照らしていることと、放生会で魚鳥を放すのを掛けてまことに上手に詠んでます。

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