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執筆者の写真木津宗詮

私の席

昭和15年(1940)4月21日に三千家が施主となり利休居士三百五十年遠忌法要が大徳寺法堂で営まれました。そして法要では表千家即中斎、裏千家淡々斎、武者小路千家愈好斎により献茶が、また、法要の実況放送も行われました。法要の導師は当時大徳寺管長であった大梅窟でした。

大梅窟は埼玉の人で、姓は太田、号は晦巌、室号は大梅窟。円覚僧堂ぼ釈宗演に参じて法嗣となりました。品川東海寺に住し、大正14年(1925)、大徳寺において開堂し大徳寺489世となりました。昭和5年(1930)に円覚寺派管長に就任し、その5年後の昭和10年(1935)に大徳寺派第8代管長、並びに僧堂師家に就任します。昭和和21年(1946)、71歳で示寂しています。語録『大梅録』があります。

先代有隣斎室の澄子夫人からうかがった大梅窟の逸話があります。老師が大徳寺の管長だった時、時の内閣総理大臣であった近衛文麿公爵がある法要に参列しました。

公爵は老師の控え室である本坊の起龍軒の床前の立派な座布団に静かに座して法要の案内を待っていたそうです。そこに大梅窟が現れて、すかさず、

「私の席に座っているのは誰ですか!」

と一喝したそうです。そして公爵はするするするとその座布団から滑り降りたそうです。文麿は起龍軒の一番上座の床前の席が老師のものとは知らず、当然自分に与えられた席だと思いこんでそこに座していたのです。なんといっても内閣総理大臣であり、公爵、大徳寺の大檀越である自分に対しての大徳寺の計らいであり、待遇であると無意識にそう信じていたのです。内閣総理大臣であれ、公爵であれ、大檀越であれ、大徳寺の主は自分であるという気概が老師にはあり、そんな社会的地位など全く歯牙にもかけていないとして公爵に一喝したのです。まことに豪胆な気概のある老師だったのです。

なお、大徳寺は五摂家筆頭の近衛家の菩提寺で、歴代の廟所も同寺にあります。ちなみに文麿が京都帝国大学の学生出会った時の下宿先は同寺塔頭の芳春院が下宿先でした。

利休三百五十年遠忌の大梅窟の香語です。

利休居士三百五十

遠年諱香語

建溪天地了玄機

抗節曷従権者威

三百五十春一鼎

響高末後力圍希

  大徳晦巌(印)


建溪(けんけい)の天地玄機(げんき)を了(りよう)し

抗節(こうせつ)曷(なん)ぞ権者の威に従う

三百五十春一鼎(いちてい)

響は高く末後力圍希(りきいき)


この香語の二行目の「抗節曷従権者威」に書かれた利休居士の権力者にたいする姿勢や、梁の武帝に「無功徳」と答えた達磨と大梅窟に通じるよものを感じます。

写真は法要当日の祭壇、濃茶点前をする表千家即中斎、薄茶点前をする裏千家淡々斎、炭点前をする武者小路千家愈好斎、三千家宗匠、法要の参列者、法要の実況放送


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