明治43年10月1日に豊田善右衛門から3代聿斎宗泉が贈られた直斎筆横物「雪月花」です。箱の甲は聴雪の筆であることを聿斎が極めています。
豊田善右衛門は、江戸中期から「船場」(高麗橋1丁目の現・三井住友銀行大阪中央支店)の地で縫い糸・帯締めなどを扱う糸豊田糸店の当主でした。明治に入り軍服・警察官の制服・学生服の制作をし、イギリス・ランカシャーの羅紗(ラシャ)生地で高級紳士服をデザイン・卸し・販売し、豊田商店(現豊田産業株式会社)を明治34年(1901)に設立しました。大正7年(1918)には「株式会社豊田商店」と改め、国内外に向けた毛織物・紳士服地・婦人服地などを扱う繊維商社として、中国北東部や香港にも支店を構えました。なお、善右衛門の実弟上野理一は朝日新聞の社主・社長つとめています。また善右衛門は藤田伝三郎、上野理一、村山龍平が発起人となり京阪神の茶湯同好の実業家18名が参加する社交組織「十八会」の会員でした。十八会は会員が持ち回りで幹事を務め、毎月18日に自邸で茶会を開きました。
明治31年(1898)に武者小路千家11代一指斎が没後、木津家2代得浅斎宗詮の門人で数寄者の平瀬露香が家元預となり、明治41年(1908)に露香が亡くなり息露秀が家元預を継承しました。翌42年6月に露秀と藤田伝三郎(芦庵)・上野理一(有竹)・豊田善右衛門の後援のもとに家元預を木津家3代聿斎宗泉が露秀から引き継いでいます。また、明治維新の後、茶の湯が低迷していた時、聿斎は茶の湯のみで身を立てるまでの20数年間豊田商店で働き、その後も豊田善右衛門の多大な支援を受けました。善右衛門は聿斎の最大の後援者でした。
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