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執筆者の写真木津宗詮

弦召そう

祇園祭というと山鉾巡行のイメージですが、一番大切なのは御神霊が乗った三基の御鳳輦です。こんなこと書くとお叱りを受けるやもしれませんが山も鉾も添え物みたいなものです。

今日は御神霊が四条の御旅所から中御座神輿(なかござみこし)・東御座神輿(ひがしござみこし)・西御座神輿(にしござみこし)が八坂神社から氏子町を回って、氏子町を渡御して、最後に八坂神社に還幸・お帰りになります。そして御神霊を御本殿にお遷して還幸祭が行われます。

写真の上杉本「洛中洛外図屏風」は、鴨川に架る太鼓橋から西に向かって犬神人を先頭に行列が通る絵が描かれています。八角形の屋根の御神輿は八柱御子神の御神霊が乗った錦神輿会が担ぐ西御座、その後方に見える四角形の屋根は、四若神輿会が担ぐ櫛稲田姫命の御神霊が乗られた東御座、。もう1基の六角形の屋根の御神輿は三若神輿会が担ぐ素戔嗚命の御神霊を乗せた中御座です。なお、明治までは西御座は壬生村の農家の壬生組が担いだそうです。

そして御神輿の先頭を甲冑姿の人が描かれています。この甲冑をつけた人たちは、かつて八坂神社に従属し、警備や清掃などの雑役に従事した下級神官である犬神人(いぬじにん)です。犬神人は神輿渡御(神幸祭・還幸祭)の際に、白い頭巾で顔を覆い眼だけを出した裹頭(かとう)の法師姿で、八角棒を持ち、6人の棒の衆として神輿を先導し、順路を警備・清掃しました。江戸時代の神輿渡御の際には6人の法師武者・30人の甲冑姿の武者が神輿に武者行列として供奉したとのことです。昭和41年に還幸祭、昭和49年な神幸祭の供奉が最後になりました。そこで昭和50年から7月16日の宵山、17日還幸祭、山鉾巡行の日に甲冑が虫干しを兼ねて弓矢町武具飾りが行われています。松原通の町家や町会所である弓箭閣(きゅうせんかく)などに約10領の甲冑が飾られます。弓箭閣では大将印の甲冑と御使武者印の2領の甲冑、古文書・古地図・写真などが展示されます。大将印の供奉は中弓矢町・東弓矢町・西弓矢町の3ヶ町の年番で交替で務めていたそうです。なお犬神人は江戸時代に弓矢・弦・沓(とう)・弓懸(ゆがけ)などを作っていたそうです。そして「弦召し候へ、弦召(つるめ)そう~」と口上したので「弦召そう」と呼ばれました。

絵は上賀茂の社家賀茂季鷹の賛になる岡本豊彦画になる弦召そう図です。

弦めそは其日威のよろひ着て下にはあせのくさり帷子

なお、動画の御神輿は神幸祭の時のものです。


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