江戸時代中期の国学者富士谷御杖(ふじたにみつえ)二首詠草です。
年かな
こりてやくれし
いのこりに
こりに
いはかねのゆきの朝こり
としの
くれによセる
御杖
けり
きに
春は
心さたまる
花ミむと
よしの丶山に
三よし野の
年の暮れに寄せる
岩か根の雪の朝ごり居残りに
凝りに凝りてや暮れし年かな
年の始に
年の始めに
三吉野の吉野の山に花見むと
心さだまる春は来にけり
御杖は、伯父皆川淇園が人間の「声」と「気」から古代人の純粋言語を考察しようと試みた「開物学」の強い影響を受けました。御杖はそれらを独自に消化しながら、「人心の内部の慰めることの出来ない一向心(ひたぶるこころ)」をありのままに詠むのではなく、人間の生活において破ってはいけないものとの葛藤から、和歌は詠み出されるべきであるという歌論を主張しました。本居宣長の『古事記伝』を積極的に批判するなど独特の主張を展開した国学者です。
今日は「節分」です。節分は、雑節の一つで、各季節の始まりの日(立春・立夏・立秋・立冬)の前日のことをいい、本来、1年に4回ありました。節分とは「季節を分ける」ことをを意味しています。江戸時代以降は特に立春(毎年2月4日ごろ)の前日を節分といい、翌日の立春を1年のはじまりとして、とくに尊ばれたため、次第に節分といえば春の節分のみを指すようになりました。まさに節分はどの季節にも属さない空白の時間です。
御杖の詠草は、右側には岩盤に昨夜雪が積もり、今朝その溶け残りが固まりに固まりアイスバーンになったそんな凍てつく年の暮れを詠み、中央に署名をし、左には今年こそは吉野の桜を見に行こうと堅く心を定めた春がやってきたという心を歌っています。左右に二首の和歌を散らし、中央の余白はまさに節分で、いずれの季節にも所属しない空白の時を表わしているようにみえます。まことにおもしろい軸で、わたしのお気に入りのひとつです。
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