一乗院(橘御殿)は奈良興福寺の門跡の一つです。歴代は親王または近衛家の男子が門跡となり明治にいたります。そして明治の神仏分離により廃され官没されました。宸殿、殿上等の建物は県庁舎に使用され、のちに裁判所に転用されました。現在、宸殿は唐招提寺に移築され、同寺の御影堂となり重要文化財に指定されています。 初代木津松斎宗詮は一乗院41代門跡尊応(そんおう)親王に武者小路千家の茶の湯を教授していました。嘉永4年(1851)4月、松斎は一乗院の茶室「忘蘆(わすれよし)」の作庭に携わり、その褒美として尊応親王から御庭焼仁清作掛絡香合と、織部饅頭を入れた珠光好みの十八公食篭を拝領しています。香合の箱書には花押が認められ、箱の甲には「庭焼 仁清」と書かれ、外箱は松斎が、
尊応親王御手 すから於御茶室 被下置候仁清作 クハラ香合
外箱の甲には、
南都橘御殿忘蘆 御数寄屋之御庭被 仰付候節此御香合 拝領御品御染筆
と自ら記しています。拝領の経緯と、茶室で親王手ずから拝領し、箱書が親王の自筆である旨を松斎は認めています。この上もない栄誉に浴したことに感激しての書付です。なお、この香合には、
御庭焼仁清 御香合 右賜之候永可有 重宝条如件 嘉永四年四月 高天治部卿 (花押) 木津宗詮殿
と、一乗院の諸大夫の高天治部卿(たかまじぶきょう)筆の奉書が軸装して添えられています。なお、松斎の門人で医師の岩永文禎(いわなかぶんてい)の『鐘奇斎日々雑記(しょうきさいにちにちざっき)』によると、翌3月22日を初会として、その披露の茶事を催しています。この茶事は作法の通り、拝領の香合を盆香合の扱いでした。松斎が没する2年前、すなわち75歳の最晩年の茶事です。 尊応親王は伏見宮貞敬(さだゆき)親王の第四王子で、仁孝天皇の猶子となり、親王宣下を受け、一乗院の41代門跡となり、のち粟田口青蓮院(あわたぐちしょうれんいん)に移り天台座主となっています。勤皇家として活躍しましたが、安政の大獄に連座し、後に還俗を命じられ中川宮と称し、公武合体派の巨魁となりました、明治になり新宮家である久邇宮(くにのみや)家を立て、久邇宮朝彦(あさひこ)親王と名を改めます。今上天皇の高祖父にあたります。 なお、一乗院最後の門跡で42代の応昭(おうしょう)は近衞忠煕(ただひろ)の八男で、還俗して水谷川忠起(みやがわただおき)と名を改め、華族に列して男爵となり、春日大社の初代宮司となっています。 忠起の嗣子忠麿(ただまろ)は、公爵近衛篤麿(あつまろ)の四男として生まれます。のちに忠麿は父篤麿の叔父水谷川忠起の養子となり家督を相続します。なお忠麿には兄に内閣総理大臣の近衛文麿(ふみまろ)、指揮者の近衛秀麿(ひでまろ)、ホルン奏者の近衛直麿(なおまろ)がいました。 忠麿は学習院中等科時代から有島生馬(ありしまいくま)について洋画を習い画家を志しました。その後、京都帝国大学哲学科に入学し、在学中はオーケストラ部に参加してオーボエを吹き、京都音楽協会の設立に参加しました。大学卒業後、内務大臣秘書官や大蔵大臣秘書官、貴族院議員を歴任。戦後は春日大社・談山神社宮司となりました。 尊応親王が松斎に武者小路千家の茶の湯を教授されていたことから、昭和14年(1939)2月に忠麿は先々代家元愈好斎に入門して武者小路千家の茶の湯をたしなみました。また、その縁で兄近衛文麿も愈好斎に入門しています。戦後、春日大社の宮司になってからは愈好斎と諮って献茶祭をはじめ、今日、毎年5月10日に三千家家元により執り行われています。なお、去る10日にも家元不徹斎宗匠と随縁斎若宗匠により献茶の奉仕が行われました。 忠麿は、一乗院伝来の華道「御門流(みかどりゅう)」を再興し、二科展に入選し、また音楽や書・絵・篆刻等をたしなむ趣味人としても活躍しました。昭和15年(1940)に愈好斎が再建した家元邸内の直斎好みになる茶室「弘道庵(こうどうあん)」の兄文麿筆になる扁額は忠麿の篆刻です。なお、忠麿の嗣子で作曲家の水谷川忠俊(ただとし)は兄秀麿の三男で、その長女の水谷川陽子はヴァイオリニスト、次女の水谷川優子はチェリストして活躍しています。
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