わたの原やそしまかけてこぎいでぬと
人にはつげよあまのつり舟
『百人一首』で有名な小野篁の歌です。『古今和歌集』の羇旅で、詞書に。
おきのくににながされける時に、ふねにのりていでたつとて、京なる人のもとにつかはしける
とあります。
小野篁は承和元年(834)に遣唐副使に任ぜられます。承和3年(836)と翌4年(837)の2回に亘り出帆すしますが、いずれも唐にたどり着けませんでした。承和5年(838)に3度目の航海にあたって、遣唐大使藤原常嗣の乗船する第一船が損傷して漏水したことから、常嗣の上奏により篁の乗る第二船を第一船とし常嗣が乗船しました。これに対して篁は、己の利得のために他人に損害を押し付けるような道理に逆らった方法が罷り通るなら、面目なくて部下を率いることなど到底できないと抗議をしました。さらに自身の病気や老母の世話が必要であることを理由に乗船を拒否したのです。のちに、篁は恨みの気持ちを含んだまま『西道謡』という遣唐使の事業を、ひいては朝廷を風刺する漢詩を作ります。この漢詩それを読んだ嵯峨上皇は激怒して、篁の罪状を審議させ、同年12月に官位剥奪の上で隠岐国への流罪に処しました。この歌はこの時に読まれたものです。
白島海岸の展望台の説明書きに「実は、ここ白島見物の時に作られたものと伝えられています。」とありましたがいかがなものでしょうか。『古今和歌集』の詞書に「ふねにのりていでたつとて」とはっきり書かれています。まあ、案内板は「隠岐島後民話・伝説案内板」とあるので「民話・伝説」と思えば問題のないことです。本当のところは小野篁本人に聞いてみないとわからないことです。ちなみに隠岐には中ノ島、西ノ島はじめ大小180を超える島があるそうで、やそしま(八十島)どころではありません。
隠岐には小野篁ゆかりの光山寺や壇鏡の滝などもあります。
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