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執筆者の写真木津宗詮

天下第一泉

近重物闇(ちかしげぶつあん)行脚画讃です。

八十行脚

随處喫茶去

 用天下第一泉

 水磨墨

  物安(印)

八十行脚随處喫茶去用天下第一泉水磨墨

八十行脚(あんぎゃ)随処(ずいしょ)に喫茶去(きっさこ)

天下第一泉の水を用いて墨を磨(す)る

近重物闇(ちかしげぶつあん)は明治から昭和前期の化学者です。明治3年(1870)高知市生まる。名は真澄、物闇と号しました。京都帝国大学化学科卒業後、同大学院に学び、第五高等学校教授となります。過塩素酸水銀塩類に関する研究、テルルの原子量に関する研究などを発表。明治31年(1898)、京都帝国大学化学教室助教授に招かれ、明治35年(1902)理学博士となっています。同38年〜同41年(1905~08)、ドイツに留学、タンマンの下で研究。帰国後、教授になり無機化学講座を担当し、わが国の理論無機化学、金相学の基礎を築きました。のちに古銅器や日本刀の金属学的研究も行っています。大正7年(1918)京都帝国理科大学長となり、地質鉱物学教室の創設、物理学・化学教室の拡充、生物化学研究室の増設などに力を尽くし、化学研究所初代所長を務めています。昭和2年(1927)には日本化学会会長に選ばれ、理論化学の発展に貢献しました。昭和16年(1941)72歳で没しています。

茶の湯は64歳の時、愈好斎に師事し、点前の修練に励み、12年間の間一日3度の稽古にを積み重ね、安井の自宅に二畳向切り洞庫付きの「随時軒」を営んでいます。常日頃「所謂道の秘伝、極意というものが、日の浅い究道者にとっては、案外詰まらないものだが、道に入ったものに取っては中々大切なコツであって、多年の苦心がこの一点の秘伝によって、豁然として光明を覚える。その境地に到達せない限り、秘伝極意も何らの価値もないものである」と主張していました。茶杓千本削りの念願を立て、一々茶杓にに番号をつけ、千本以上の茶杓を削りました。また禅を深く極め、漢詩、俳句など豊富な趣味で悠々自適な晩年を過ごしています。なお、生前の澄子夫人は子どものころの物闇のことを話す時、「モッタン、モッタン」といっていたのがとても印象に残っています。

天下第一泉とは、昭和14年(1939)1月12日、中国玉泉山の名水を用いて家元初釜が行われました。玉泉の名水は、北京郊外西北二十五清里、玉泉山静明園の井水で、乾隆帝が天下第一泉と銘した名水です。同13(1938)年の大晦日の夜に、大阪木津川飛行場へ一升瓶6本にこの名水が届きました。物闇この水を使って墨を磨ってこの軸を書いています。これを送ったのが愈好斎の友人で逓信省より特殊任務を帯び、その部隊に所属する今井博氏より贈られたものでした。。

なお、玉泉と呼ばれる泉は、北京の頤和園の西に位置する玉泉山の南麓にあります。水が碧色をした綺麗な玉のようであることからこの名前が付きました。玉泉にある龍口はその遠望は龍が水を汲むようであり、近くで見ると白雪が飛び散るようにも見えるといわれ、『噴雪泉』ともいわれていました。古来、玉泉はその美しさから『燕京八景』の一つに数えられていました。 元々玉泉山には十数ヶ所の泉があり、総流水量も多くありました。しかし近代になって開発により泉からの水量が減り、以前の美しさがなくなりました。乾隆帝はお茶好きな皇帝で有名で龍井茶(緑茶)を好んだといわれています。彼は全国巡回をした際にそれぞれの名水の比重を比べましたが、玉泉の水が中国で一番比重が軽く、甘かったことから 『玉泉山天下第一泉記』 という石碑を自ら書き残しました。乾隆帝はこの玉泉のほかに水質の好いところを次のように示しています。

第二塞上伊遜の水 、第三済南珍珠泉、 第四揚子江金山泉、 第五無錫恵山泉と杭州虎【足+包】泉、 第六平山泉、 第七清凉山、白沙井、虎丘泉、西山碧雲寺泉

むかしは名水を用いた茶の湯は季節を問わず行われていましたが、現在は主に夏場のものとなっています。交通の便が悪い時代には、時期を問わず名水が手に入れば客を招いていて茶事をしたのです。まさにこの時の初釜は名水中の名水を用いた茶の湯だったのです。

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