得浅斎の道具はほとんど残されてなくこの高取水指はその数少ないものの一つである。その箱書きに、
慶応元丑年冬
中納言様御屋鋪ニテ、幸橋御屋敷ニテ、
長々御□座中、御数寄屋詰相勤、
其節途中ニテ求之所持候者也
卜深庵所持
寅夏茶湯ニテ
用ルナリ
とあり、慶応元年(1865)冬、得浅斎は紀州藩最後の藩主徳川茂承(とくがわもちつぐ)の江戸幸橋屋敷で御数寄屋詰として茶の湯に関わる業務にあたっていた時に求めた水指である。そして翌慶応2年(1866)の夏の茶事で用いた旨が記されている。この年、得浅斎は二代宗詮を襲名していて、その披露の茶事で用いられたものと思われる。
高取焼は福岡県直方市の鷹取山の麓の窯で、朝鮮出兵の折、黒田長政が陶工八山(日本名八蔵重定)を連れて帰って焼かせたのが始まりである。後に小堀遠州が指導して遠州好みの茶器を多く焼かせたことから「遠州七窯」の一つとされた。
この水指は、きめ細かな薄造りの生地で、口が四方の形の端正ななりである。全体に乳白釉が掛けられ、正面に茶褐色釉がなだれに掛けられた気品のある水指である。
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