方広寺は豊臣家が秀吉、秀頼の二代にわたりその権勢をフルに投入して造営した寺です。そののち幾度か罹災するものの明治維新の時には、その広大な寺域に天保年間に再建された木造の大仏とその仮殿がありました。
明治2年(1869)、明治政府は境内地の南半分、三十三間堂の別当寺であった宝生院と、妙法院の脇門跡日厳院の敷地をあわせて収公し、皇室歴代の位牌と念持仏を奉安する宮内省管轄の霊廟・仏堂である恭明宮(きょうめいぐう)の造営を着手しました。現在の京都国立博物館の所です。
その場所には、唯一秀頼造営当初のもので、槻材の丹塗の桃山建築の鐘楼があったそうです。殿舎建築の邪魔になるということで壊され、木材は潰し売りにされました。
豊臣家の怨念のこもった梵鐘は、高さ一丈五尺(3,18m)周囲二丈七尺(6,24m)重量二万二千貫目(82t)もの巨大なもので、潰すこともできず、明治17年(1884)に方広寺が鐘楼を再建するまで露天にさらされていました。
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