このたび、湊川神社の献茶祭を家元が奉仕する。その副席を卜深庵が担当することとなった。そこで釜を掛けるにあたり、ご祭神楠木正成公の認識を深めるべく、その故地である千早赤阪村を訪ねた。
楠木正成公は南北朝の武将で、河内国の土豪で橘氏嫡流の為政(ためまさ)の後裔楠木正遠(まさとお)の子とされている。幼名多聞丸(たもんまる)。鎌倉幕府に抵抗し、最後まで勤王をつらぬいたことから、明治以降「大楠公(だいなんこう」と称されている。
元弘元年(1331)、後醍醐天皇は、幕府打倒を目指して京都で挙兵する。楠木正成公で笠置山(かさぎやま)の戦いで敗北した後、およそ500余りの兵力で数万の幕府討伐軍と戦う。幕府側は初戦だけで七百名の兵を失い、持久戦に持ち込んだ。二十日で食糧は底を尽き、後醍醐天皇は捕えられ、正成公は城に火を放ち自害したと見せかけて脱出する。その後、後醍醐天皇は隠岐島(おきのしま)に配流され、討幕側の主力の日野俊元(ひのとしもと)や北畠具行(きたばたけともゆき)、日野資朝(ひのすけもと)らは斬罪となった。
正慶元年(1332)、正成公は再挙兵し、上赤坂城(かみあかさかじょう)や金剛山(こんごうさん)に築いた山城でゲリラ戦法などを駆使して幕府軍を相手に奮戦した。正成公は河内や和泉の守護(幕府の軍事機関)を次々攻略し、摂津の四天王寺(してんのうじ)を占拠する。これに対し、幕府側は幕府最強の宇都宮公綱(うつのみやきんつな)を差し向ける。正成公は公綱より兵力では勝っていたが、公綱の武略を恐れて直接対決を挑もうとはせず、持久戦に持ち込んでいる。公綱もまた、正成公の武略を恐れて直接には相対せず、結局勝敗はつかずして引き分けた。正成公はこの時、「戦場で命を捨てることは、塵や芥よりも軽いもの」と評して公綱の武勇を恐れ、兵を退いている。
その後、千早城で正成公は僅か千人足らずの小勢で百万と号する幕府の大軍を迎え撃つ。『太平記』に、
城の四方ニ三里が間は見物相撲の場の如く、打井んで尺寸の地をも余さず充
満せり
とあり数十倍の大軍が千早城に押し寄せている。地元の土豪などの協力もあり、幕府側の兵糧を断ち、幕府軍からは数百単位で撤退する部隊が続出し、九十日に渡って大軍を相手に戦い抜いている。ちなみに、赤坂城、千早城の合戦の後日、正成公は、敵・味方の戦没者を弔うためのに、供養塔(五輪塔)を建立し、高僧を招いて法要を行なっている。この供養塔には“敵”という文字を使わず、代わりに「寄手(攻撃側)」という文字を使っている。そして、寄手塚の塚を、味方の塚よりひとまわり大きくしている。
正成公は建武の新政の立役者として足利尊氏らと共に活躍する。後醍醐天皇の側近として名和長年(なわながとし)、結城親光(ゆうきちかみつ)、千種忠顕(ちぐさただあき)とともに「三木一草(さんぼくいっそう」と呼ばれた。尊氏の離反後は南朝側の軍の一翼を担うこととなる。
建武三年(1336)、正成公は後醍醐天皇に、状況が宮方に有利なうちに足利尊氏と和睦することを進言する。それに対し、天皇はこれを退け、新田義貞(にったよしさだ)を総大将とする尊氏追討の軍を西国へ向けて派遣した。足利尊氏は九州から大軍を率いて東上を開始し、義貞は西国で敗退を続け、兵庫まで兵を退いて体制の立て直しを図った。後醍醐天皇は援軍として正成公に出陣を命じる。尊氏軍三万五千に対し、正成軍はたったの七百。戦力の差は何と五十倍であった。五月二十五日、湊川で両軍は激突。海岸に陣をひいた新田軍は海と陸から挟まれ総崩れになり、楠木軍に合流できなかったばかりか、足利軍に加わる兵まで出た。楠木軍は湊川の西側、本陣の北西にあたる会下山えげやまに布陣した。戦力の差は歴然としており、義貞は退路を絶たれる危険を感じて東走し、楠木軍は孤立する。しかし、楠木軍は鬼気迫る突撃を繰り返し、尊氏はついに一斉攻撃を命じた。六時間後、正成公は生き残った七十二名の部下と民家へ入り、念仏を唱えて家屋に火を放ち全員が自刃した。正成公は弟・正季(まさすえ)と短刀を持って向かい合い、互いに相手の腹を刺し果てたという。享年四十二歳。
明治5年(一八七二)、明治天皇が正成公の忠義を後世に伝えるため、神社を創建するよう命じ、五月二十四日、湊川神社が創建された。なお、明治十三年(一八八〇)には正一位を追贈され、同社の旧社格は別格官幣社であった。
昭和十年(一九三五)の大楠公六百年大祭には献茶講が作られ、献茶祭も藪内・表千家・裏千家・武者小路千家・堀内家・久田家の輪番制で奉仕され今日に至っている。戦前は春と秋の二回であったが、戦後からは年一回、五月のみ斎行されている。武者小路千家では、昭和十三年(一九三八)、先々代家元愈好斎が奉仕をし、これを記念して新たに建茶道具一式が奉納されている。当時の記録によると、
一、御台子 点茶台 小兵衛作
一、御釜 霰釜 蓋菊水文 清右衛門作
一、御丸炉 同
一、御水指 青磁一重口 非理法権天ノ意 蘇山作
一、御杓立 同 同
一、御建水 同 同
一、御蓋置 同 同
一、御長盆 黒 一閑作
一、御濃茶入 松棗 黄漆菊水文 宗哲作
一、御濃茶器袋 菊水文白羽二重 紫緒 友湖作
一、御濃茶天目 菊水文 赤楽 吉左衛門作 蘇山 白磁
一、御濃茶天目袋
一、御天目茶器 溜一双 一閑作
一、御薄茶器袋 菊水文白羽二重 赤緒 友湖作
一、御薄茶天目 菊水文白楽 吉左衛門作 蘇山 青磁
一、御薄茶天目袋 御物袋
一、御茶杓 真形 裏溜塗菊水文 正玄作
一、御茶杓袋
一、御茶筅台 内白 外菊水文象眼模様 永楽作
一、御炭斗 杉神折敷 白置上ゲ橘 利斎作
一、御香合 桐木地菊水 利斎作
一、御羽箒 鶴三羽 一閑作
一、御火箸 南鐐柄付溜塗菊水蒔絵 金長・一閑作
一、御茶鐶 鉄張貫菊水及唐草文 金長作
一、御釜敷 大鷹檀紙 吉兵衛作
一、御帛紗
一、御唐櫃
新たに奉納された道具は、ご祭神楠木正成公にちなみ、菊水文と「非理法権天」の意を表した道具で、特に台子は白木地の及台子と点茶卓(立礼卓)を併せた形式の新しい趣向のものであった。副席を小曽根凌雪が担当し、その後見を三代木津聿斎がつとめている。なお、これらの道具はまことに残念なことに昭和二十年(一九四五)の神戸大空襲に罹災している。現在は奉納時に控えとして作られた皆具を、昭和25年(1950)5月17日に小曽根凌雪により納められたものが用いられている。
楠公生誕地
楠木正公が成誕生したとされる地。永仁2年(1294)、現在の千早赤阪村水分山ノ井で誕生し、幼名を多門丸と称し、幼少のころは観心寺(かんしんじ)境内にある楠木家の菩提寺の中院(ちゅういん)で学問を学んだといわれる。文禄年間(1592~96)、豊臣秀吉の命により、増田長盛(ましたながもり)がここを検地し土壇を築き、小さな社を祀ったのが始まりとされる。さらに明治8年(1874)、大久保利通(おおくぼとしみち)の奨めによりここに碑が建てられた。碑の銘は幕末の剣豪の一人、桃井春蔵(ももいしゅんぞう)の直筆によるなる。また付近には産湯に使ったされる井戸がある。
建水分神社(たけみくまりじんじゃ)
建水分神社は延喜式内社(えんぎしきないしゃ)で金剛葛城(こんごうかつらぎ)の山麓に水神として奉祀された。建武元年(1334)、後醍醐天皇が正成公に命じて社殿を現在地に遷し、本殿、拝殿、鐘楼等を再営させた。なお、大鳥居の「正一位 水分大明神」の扁額は楠木正行(くすのきまさつら公(正成公嫡子)が奉納した伝・後醍醐天皇宸筆の木額が摩滅したため、後に金銅製で模造したものである。文字は公家の葉室頼孝(はむろよりたかの筆になる。
観心寺
観心寺は、奈良時代に役小角によって開かれ、弘法大師空海が本尊如意輪観世音菩薩(にょいりんかんぜおんぼさつ)を刻み、寺号を観心寺としたとされている。後醍醐天皇は建武新政後、正成公に金堂外陣造営を命じ、また、建掛塔(たてかけのとうは正成公の発願により建立が開始されたが、一層だけで中断したと伝えられている。同寺中院は楠木家の菩提寺で、正成公幼少の頃の学問所でもある。
千早城跡(ちはやじょうあと)(国指定史跡)
四方を絶壁に囲まれ要塞堅固を誇ったといわれる連郭式山城(れんかくしきやまじろ)で、楠木七城のひとつである。
元弘3年(1333)、千早城も幕府軍に包囲されたが、正成公は、櫓やぐらより大石を投げ落とし応戦し逃げ惑う兵に矢と石礫いしつぶてが降りそそぎ、谷底に死体の山がうず高く重なった。『太平記』に、
長崎四郎左衛門尉、軍奉行にてありければ、手負死人の実検をなしけるに、執筆十二人昼夜三日が間筆もおかず詿けり
とあり書記12名が昼夜3日間死者の数を確認するのに筆が離せなかったほどと言われている。また正成公は策をめぐらし、藁人形に甲冑を着せ弓や槍を持たせて夜のうちに城外の麓に並べ、後ろに兵500を潜ませ、夜明けになると鬨ときの声をあげさせた。鎌倉幕府軍は決死の攻撃と思いこみ攻め寄せた。幕府軍がわら人形に到達した所を見計らい、大量の大石を投げ落とし、300名が即死、500名が負傷した。そこで幕府軍は近くの山より城壁へ橋を掛けて一気に攻め上ろうとした。京都より大工500余人を呼び集め、巾15尺( 4.5m)、長さ100尺(300m)の橋を造り、大縄をつけて城内へ殺到した。ところが正成公は、かねて用意の油を橋に注ぎそれに松明を投げた。城内にたどり着こうとしていた兵は後ろに下がろうとしても後陣が続いており、飛び降りようにも谷は深く、もたもたしていると橋けたの中ほどより折れ、数千名が猛火に落ち重なって火地獄になったと太平記に記載されている。
正成公と幕府軍の千早城の攻防は5月まで100日余間にわたり続けられた。千早城は、正成公の奇策をもって幕府軍の攻撃に堪え、建武中興の原動力となった難攻不落の名城である。なお、籠城100日余日にして鎌倉幕府は滅亡する。千早城に幕府軍が足止めされている間に、新田義貞が東国で挙兵して鎌倉幕府を滅亡へと導いたのである。
千早神社
千早城の本丸跡に鎮座する神社。もとは八幡大菩薩を千早城の鎮守としていたが、後に正成公と正行卿(小楠公しょうなんこう)と久子夫人の三神も併せて祀り、現在の社殿は昭和10年に(1935)に建立されたものである。
近年は難攻不落の千早城にあやかり受験生や、またパワースポットとして多くの参拝者が訪れている。
寄手塚(よせてづか)・身方塚(みかたづか)
千早・赤阪の戦いで戦死した鎌倉勢 の敵軍兵士(寄手)と、同じく味方(身方)の戦死した霊を弔うために建立したといわれている。味方の兵ばかりではなく、敵兵の慰霊碑を建てるところからも、楠木正成公の人柄の良さをうかがい知ることができる。
桜井の駅跡(国指定史跡)
延元元年(1336)、足利尊氏は京都を占領するが、わずか半月ほどで九州に落ち延び、再起を図って九州で西国武士を集めて大軍を従えて京都に向かった。その討伐軍として新田義貞(にったよしさだ)と正成公が兵庫でその大軍を迎え討った。5月23日、正成公は、決死の覚悟で兵庫へ向かって出陣し、途中、桜井の駅(大阪府三島郡島本町桜井)で、息子の正行卿に後事を託して別れた。これが世にいう「桜井の別れ」である。太平記には、
獅子子を産で三日を経る時、数千丈の石壁より是を擲、其子、獅子の機分あ
れば、教へざるに中より跳返りて、死する事を得ずといへり、況や汝已に十
歳に余りぬ、一言耳に留らば、我教誡に違ふ事なかれ、今度の合戦天下の安
否と思ふ間、今生にて汝が顔を見ん事是を限りと思ふ也、正成已に討死すと
聞なば、天下は必ず将軍の代に成ぬと心得べし、然りと云共、一旦の身命を
助らん為に、多年の忠烈を失て、降人に出る事有べからず、一族若党の一人
も死残てあらん程は、金剛山の辺に引篭て、敵寄来らば命を養由が矢さきに
懸て、義を紀信が忠に比すべし、是を汝が第一の孝行ならんずる
獅子は子を産んでから三日経てば、数千丈の絶壁からこれを放り投げる。もしその子に獅子の素質、才能があれば、教えなくても跳ね上がって死ぬことはないと言う。ましてお前はすでに10歳を過ぎている。父の言葉が一言でも耳に残れば、父の教えを守って間違いのないようにするようにしなければならない。今回の合戦は天下の安定か騒乱の継続を選ぶかを決するものと思えば、今生でお前の顔を見るのもこれが最後と思うのだ。正成がすでに討ち死にしたと聞いたなら、天下は必ず尊氏将軍の世になると思うがよい。とは言っても、一時、命が助ったとしても長年の忠節を裏切って降伏をしてはならない。一族や若党の一人でも生き残っていれば、金剛山のあたりに引き篭もり、敵が攻め寄せてきたら、自分の命を中国春秋時代(しゅんじゅうじだい)の弓の名人養由(ようゆう)の矢先におく気持ちで戦い、義を中国、漢の武将で劉邦(りゅうほう)の身代わりとなって殺された紀信(きしん)の忠と比べることだ。これを守ることがお前のとるべき第一の孝行であり、生き残って天皇のために尽くすようにと泣く泣く説得して、各々東西に別れたの場所である。
現在桜井駅跡は後援となり、乃木希典筆になる「楠公父子訣別之所」の碑と東郷平八郎が明治天皇御製「子わかれの 松のしづくに 袖ぬれて 昔をしのぶ さくらゐのさと」を揮毫した碑、また、明治9年(1876)11月に駐日イギリス大使パークスが楠木正成の精忠に感じて、表に「楠公訣児之処」と刻し、裏に英文で因由を記した碑などがある。
会下山(えげやま)
延元元年(1336)5月25日(現7月12日)、正成公は、手兵700で会下山に陣を置いた。主力の新田軍は和田岬(わだみさきに陣を敷いて足利方の海上軍に備えたが、敵の策略により正成公の軍との間を分断されてしまった。真夏の炎天下、なんと正成公は、足利尊氏の弟、直義(ただよし)等の大軍と3時間に16度にわたる激しい死闘を繰り広げるのである。そして、正成公は善戦虚しく味方はわずか73人にまでになってしまい、自身も傷を受け、湊川の北の在家に入って火をかけ正季(まさすえ)卿とともに自害した。この戦いは、後醍醐天皇にとってはもっとも強力な武将正成公を失った戦いであり、尊氏側にとってはまもなく成立する室町幕府への道を開いた重要な戦いの一つとなった。
正成公殉節地(国指定史跡)
延元元年(1336)5月25日、正成公が御弟正季卿以下御一族が殉節した場所と伝えられている。湊川神社境内西北隅で、本殿と尚志館との間に位置する。
その時の模様を『太平記』には、
楠京を出しより、世の中の事今は是迄と思ふ所存有ければ、一足も引ず戦て、
機已に疲れければ、湊河の北に当て、在家の一村有ける中へ走入て、腹を切
ん為に、鎧を脱で我身を見るに、斬疵十一箇所までぞ負たりける。此外七十
二人の者共も、皆五箇所・三箇所の疵を被らぬ者は無りけり、楠が一族十三
人、手の者六十余人、六間の客殿に二行に双居て、念仏十返計同音に唱て、
一度に腹をぞ切たりける。正成座上に居つゝ、舎弟の正季に向て、「抑最期
の一念に依て、善悪の生を引といへり、九界の間に何か御辺の願なる」と
問ければ、正季からからと打笑て、「七生まで只同じ人間に生れて、朝敵を
滅さばやとこそ存候へ」と申ければ、正成よに嬉しげなる気色にて、「罪業
深き悪念なれ共我も加様に思ふ也、いざゝらば同く生を替て此本懐を達せん」
と契て、兄弟共に差違て、同枕に臥にけり、橋本八郎正員・宇佐美河内守正
安・神宮寺太郎兵衛正師・和田五郎正隆を始として、宗との一族十六人、相
随兵五十余人、思々に並居て、一度に腹をぞ切たりける
正成公は京を出た時より、世の中の事は今はもうこれまでと思っていたので、一歩も退くことなく戦い続け、すでに戦闘意欲もすでに失ったので、湊川の北の民家のある一村に走り入り、腹を切ろうと鎧を脱ぎ我が身を見みると、切り傷が十一ヶ所もあった。このほか七十二人の兵士も皆、五ヶ所や三ヶ所の傷を受けていない者はいなかった。楠木の一族十三人と家来ら六十余人が、六間の客殿に二列に並んで念仏を十遍ほど同音に唱えて、一斉に腹を切ったのである。正成公はその場から、弟の正季卿に向かって、「そもそも臨終の時の心の持ち方によって、来世の生の善悪が決まると言う。仏界以外の地獄(じごく)・餓鬼(がき)・畜生(ちくしょう)・阿修羅(あしゅら)・人間(にんげん)・天上(てんじょう)・声聞(しょうもん)・縁覚(えんがく)・菩薩(ぼさつ)の九界のどこかに生まれ変わるのがお前の願いであるか」と尋ねた。正季卿はカラカラと笑い、「七度まで同じようにこの人間界に生まれて、朝敵を滅ぼしたい思います」と答えられると、正成公は喜びを隠すことなく、「罪深い悪い思いであるが、私もそのように思う。いざさらば。同じように生まれ変わってこの本懐を遂げようではないか」と約束して兄弟刺し違えて、同じ枕に伏たのであった。橋本八郎正員(はしもとはちろうまさかず)、宇佐美河内守正安(うさみかわうちもりまさやす)、神宮寺太郎兵衛正師(じんぐうじたろうひょうえまさもろ)、和田五郎正隆(わだごろうまさたか)をはじめに、主だった一族16人、それぞれに従う兵士ら50余人が、思い思いに居並んで、一斉に腹を切ったのである。まことに壮絶な最期であった。
正成公首塚・観心寺
正成公の首は京都六条河原に晒されたが、死を惜しんだ尊氏の特別の配慮で、彼の首は故郷の親族へ丁重に送り届けられてこの地に葬られた。なお、『梅松論(足利氏の正当性を主張する観点から書かれた軍記物語)』に、「誠に賢才武略の勇士とはこの様な者を申すべきと、敵も味方も惜しまぬ人ぞなかりける」とあり、尊氏も含め多くの人々からいかに正成公が評価わかる。
正成公御墓所(国指定史跡)
正成公以下一族等の墓所として、湊川神社境内東南隅、表門脇に位置する。
正成公に敬意を払った豊臣秀吉はこの地を免租地とし、江戸時代初期に尼崎藩2代藩主青山幸利(あおやまよしとし)が五輪塔(ごりんとう)を建て、梅と松を植え墓標とした。元禄5年(1692)には水戸藩2代藩主徳川光圀は、正成公を顕彰するために、家臣佐々介三郎宗淳(さっさすけさぶろうむねきよ)(助さん)を、この地に遣わして墓碑を建てた。この墓碑は、光圀は自ら筆を執って「嗚呼忠臣楠子之墓(ああちゅうしんなんしのはか)」と揮毫し、裏面には明(みん)の遺臣朱舜水(いしんしゅしゅんすい)の作った賛文を岡村元春(おかむらもとはる)に書かせてこれに刻んだものである。大きな亀の背に乗っている儒教式で、古来から中国では、死後の魂が霊峰崑崙山(こんろんざん)に鎮まることを理想とし、亀はこの山に運んでくれる聖なる生き物とされている。明治5年(1872)に、初代兵庫県知事伊藤博文らの請願により別格官幣神社として、湊川神社が建立され、殉節地と墓所とを含む地域が境内地とされて今日に至ている。
なお、正成公の忠節は、幕末勤皇思想の発展を助け、明治維新への力強い精神的指導力となった。頼山陽(らいさんよう)や吉田松陰(よしだしょういん)・真木保臣(まきやすおみ)・坂本龍馬(さかもとりょうま)・高杉晋作(たかすぎしんさく)・西郷隆盛(さいごうたかもり)等は、みなこの墓前にぬかづいて至誠を誓い、国事に奔走したのである。ちなみに、吉田松陰は何度も湊川の地をを訪れ、墓前で涙を流し、墓碑の拓本(たくほんを買い求め、涙を流しながら松下村塾(しょうかそんじゅくで正成公の事績を門人たちに語って聞かせた。松陰門下の三秀と称される吉田稔麿(よしだとしまろは湊川を訪れたさい、墓にすがりつき、「日頃ながさん私の涙、何故にながれるみなと川」と詠じながら、泣いたと伝えられている。
南木神社(なぎじんじゃ)
建水分神社の摂社南木神社は正成公を祀っている。
大楠公(楠木正成公)を祀る。延元二年(一三三七)、後醍醐天皇が公の尊像を刻ませ、公と縁故の深い建水分神社に祀ったのがはじまりである。その後、後村上天皇より南木明神の神号を賜る。「南木」とは「楠」を二つに分けたとも、『太平記』記述の正成公登場の後醍醐天皇の夢によるものともいう。
奉建塔
正成公の没後六百年を記念して、昭和15年(1940)に全国の児童学生や教職員等より寄せられた浄財によって浄心寺塞(じょうしんじさい)(上赤坂城支塞)跡に建立され記念塔。正成公討死の年齢43歳に因み約43尺(約13m)の高さに作られ、楠木家の紋である菊水紋と旗印の「非理法権天(ひりほうけんてん)」の文字が刻まれている。
徳川光圀像
御墓所には徳川光圀(水戸黄門)の銅像がある。資料にもとづき、彫刻家平櫛田中(ひらくしでんちゅう)「の原型により昭和30年(1955)7月、ほぼ光圀の等身大(163cm)に造られた。頌徳碑(しょうとくひ)は徳富蘇峰(とくとみそほう)の揮毫になるもの。
室町幕府が北朝の正当性を強調する中、足利軍と戦った正成公をその死後300年にわたり「逆賊」として扱われた。永禄2年(1559)に至り楠木氏の末裔楠木正虎(まさとら)が正親町天皇(おおぎまちてんのう)の勅免を取り付けたが、その後も公然と称揚する者がなく、半ば謀反人扱いを受けていた。そして正成公を初めて顕彰したのが徳川光圀で、元禄5年(1692)に正成公殉節の地湊川にその墓碑を建設した。その功績を追慕して建立てられたのがこの像である。
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