top of page
執筆者の写真木津宗詮

猶有斎賛東風・随縁斎画梅図

猶有斎賛東風・随縁斎画梅図です。

東風 員(花押)

     屋(花押)

随縁斎若宗匠の宗屋襲名茶事で、最後に寄付で随縁斎宗匠が即興で梅の絵を描き、それに猶有斎若宗匠が着賛された合作になる画賛4枚の内の1枚です。水屋のお手伝いをしたご褒美にいただきました。まことに貴重な一幅で、わが家の家宝のひとつです。ほんとうにありがたいことです。なお、その時、もう一枚いただかれたのが先代の久田得流斎宗正宗匠です。

久田宗匠はわたしにとって生涯忘れることのできない方であるとともに大恩人です。裏千家の坐忘斎宗匠の御家元御継承をなさった時に、表の而妙斎宗匠のお供が久田宗匠で、うちの不徹斎宗匠のお供がわたしでした。約に2時間にわたり無色軒という茶室で二人で控えることになりました。その時、二人は初めてお玄関からあげてもらい、宗旦さんの遺蹟ということで、二人とも感慨無量の思いを抱いていました。それまでも何度もお互いにお勝手にはお使いできていますが、お玄関からあげてもらったのはほんとうにはじめてのことでした。せめて露地だけでも見せてもらおうと思い、こっそり貴人口を開けて見ようとしたところ、建具が外れて大慌てで戸を閉め、今度はトイレにいこうとして少しでも室内を見ようとしたところが、トイレが隣で何も見ることができず、そうこうしている内に宗匠たちがお帰りになることとなり、なにひとつ見ることができずに裏千家を辞去しました。その時、一度飲みにいきましょうとさそって下さりましたが、互いに多忙にしているためにそれも叶わず、月日のみが過ぎ去っていきました。

その後、堀内宗心宗匠の米寿のパーティーでご一緒した時、パーティー終了後、祇園で4軒のお店に連れて行ってくださいました。もう3時になっていましたが最後のお店で、宗匠はわたしが他家から木津家に養子として入った者だと十分にご承知でありながら、しみじみと「江戸時代から続いている家は堀内さんとわたしの家とあなたの家だけです。あなたは他家から入った人だけれども木津家の跡取りだから、お互い助け合っていかなければならない!これからもよろしく!」と優しく声をかけて下さいました。このお言葉をいただいた時、わたしはこの上もないうれしい気持ちになりました。木津家に入家して間もないころで、流儀を越えて同じ仲間に入れてくださり、この上ないお祝いのお言葉でした。わたしにとっては何よりの励ましのお言葉で、生涯心に残るお言葉でした!

その後、宗匠は難病にかかられ、次回、お目にかかった時は、御母堂様のご葬儀の時で、見る影も無い衰えられたお姿でした。そしてその翌年、手術は成功されたとうかがっていましたが、御尊父尋牛宗匠のご葬儀の時に目も当てられない病後の衰えられたお姿でした。それがお目にかかった最後となりました。その一年後に宗匠はあっけなく54歳の若さでお亡くなりになりました。宗匠はわたしより4歳年上で、宗匠はわたしが他家から木津家に入った者とご承知でありながら、わたしを久田家同様長く家元を支えてきた家の仲間として認めて下さり、力をあわせて千家の道統を護っていく人間であると認めてくださり、励ましてくださりました。本当にうれしかったです。この軸を見ると得流斎宗匠のことを思い出し、目頭が熱くなります。また志し半ばで若くして他界された得流斎宗匠のことを思うと本当に残念な気持ちでいっぱいになります。ご冥福を心よりお祈りいたしております。そういう意味でもわたしにとってはこの上ないの宝物のひとつです!

閲覧数:44回0件のコメント

最新記事

すべて表示

Comments


bottom of page