裏千家十代認得斎(にんとくさい)と武者小路千家八代一啜斎(いっとつさい)の合作になる桃画賛と、認得斎の白紙賛(はくしさん)の二軸を通し、裏千家における好々斎と、武者小路千家に入家するまでを見ていきます。
結實三千歳
(桃絵)(一啜斎花押)(認得斎花押)
結實三千年
(認得斎花押)
解説
はじめの一軸には一啜斎が濃淡のある薄墨で瑞々しい桃の実を描き、認得斎が滑らかな筆遣いで「結實三千歳」と賛を記しています。もう一軸は認得斎が「結實三千年」とのみ認めた白紙賛です。この二軸の賛は、「歳」と「年」の文字を使い分けていることを除けば、ほとんど同じといってよい程に似通った雰囲気で、「三」の字は全く同じ、花押かおうも判を押したような書きぶりです。おそらく、二本の軸は同時に書かれたものと思われます。
「結實三千歳」の句と桃の絵は、中国の伝説上の仙女である西王母せいおうぼの三千年に一度実るとされる仙桃せんとう(神仙の桃)の故事に基づいています。『山海経』に、西王母は西の果てに住み、姿は人のようで、豹の尾と虎の牙をもち、災害を司る神とされました。時代が下るにつれて西方の仙山である崑崙山こんろんさんに住み、かつての半人半獣はんじんはんじゅうの鬼神から、すべての女仙にょせんたちを統率する、艶やかで美しい天界の最高の仙女に変化します。そして西王母は、三千年に一度花が咲いて実を結び、その実を食べると不老不死を得るという仙桃を管理すると信じられるようになりました。西王母と仙桃にまつわる話では、周しゅうの穆王ぼくおうや前漢ぜんかんの武帝ぶていが西王母からこの仙桃を贈られたとか、東方朔とうほうさくがこれを盗んで人間界に追放されたとか、『西遊記』に三蔵法師の弟子になる前の孫悟空が、天界の西王母の桃園である蟠桃園ばんとうえんの番人を命ぜられた折、この桃を食い荒らし、天界から追放されたという話が知られています。仙桃は実に貴いものとされてきたのです。
この二本の軸は、好々斎が裏千家から武者小路千家に入家するにあたり、両家の家元により記念に認められたものと思われます。好々斎にとって実兄である認得斎と義父となる一啜斎の合作である桃画賛は武者小路千家のため、認得斎のみの白紙賛は裏千家のために書かれたと考えられます。二軸を見比べた時、武者小路千家のほうには桃の実が描かれ、裏千家のほうはその箇所が空白であることが非常に興味深く感じられます。両者にとり、まさに好々斎は三千年に一度しか実らない桃の実であったのでしょう。なお、絵につける賛は通常目上の者が認めますが、認得斎は一啜斎より七歳年下になります。本来ならば一啜斎が賛を書くべきところですが、認得斎の大切な弟を養子にもらうということから、遠慮したことによるのでしょう。
裏千家における好々斎
好々斎は、寛政七年(一七九五)に裏千家九代不見斎石翁ふけんさいせきおう宗室と後室竜(干峰宗映せんほうそうえい)との間に生まれています。好々斎には、父不見斎と最初の室浄嶽宗巌じょうがくそうげん(安政元年歿)との間に長兄の認得斎と早生した十一郎、与三郎等、また同腹に石牛斎宗玄せきぎゅうさいそうげん等の兄弟がいました。好々斎の幼名は不明ですが、高松藩の「登士録」に名乗りは徳方のりまさとあります。文政二年(一八一九)二十五歳の時に武者小路千家に入家し、天保六年(一八三五)に歿しています。
好々斎は、裏千家では初め宗什そうじゅうと名乗っていました。大徳寺四三五世大綱宗彦だいこうそうげんの『空華室日記』の文化十三年(一八一六)五月十一日の項に、兄認得斎が茶事を催し、大綱と孤篷庵こほうあん、道正庵どうしょうあんの三客を招いたことが記されています。「赴今日庵報来詣、宗什出接了、入露地宗室出迎」(一同が今日庵に到着すると、まず宗什が出迎え、露地入りが済んだところで認得斎が迎え付けをした)とあり、宗什の名が見られます。同じく翌十四年(一八一七)五月十五日の項には「千宗什来請茶讌」とあり、認得斎が同月二十七日に催した、父不見斎の十七回忌追悼の連会茶事の一会にあたり、宗什を大綱のもとに案内の挨拶に赴かせたことが記されています。そしてこの連会茶事を無事に終えた九月七日に「千宗室弟宗什来告改名玄室」、宗什を玄室と改名した旨の報告に来たという一文が書かれています(筒井紘一「認得斎の生涯-認得斎の茶境と交友-」『認得斎柏叟』所収)。この時、好々斎は二十三歳でした。玄室の号は裏千家では四代仙叟宗室が、初め医師の野間玄琢のまげんたくについて医術の修行をしていた時、玄琢より与えられたものです。その後、好々斎の実父不見斎と十一代玄々斎が宗室襲名前に、また玄々斎の息一如斎(宗室襲名前に歿)も当初名乗っています。少し時代が下る記録ですが、武者小路千家十一代一指斎が安政二年(一八五五)三月に「聚光院御納所衆中」に提出した「不審庵歴代忌辰焼香之位次并斎筵着座左之通御定被下候様奉願候事」の控えに、
一 宗左 宗員 宗室 宗守 玄室 宗屋
三家隠居之時
一 宗員 宗左 玄室 宗屋 宗室 宗安
三家有二男時
一 宗左 宗員 宗室 宗守 玄室 宗屋
宗左 宗室 宗守
二男 二男 二男
但、右之外男子有之時、可準此例事
斎筵着座
一 宗左 宗室 宗守 宗員 玄室 宗屋
一 江岑、仙叟、一翁已後之諸亡年忌相営節者、
其家々之施主先ニ焼香可致候事 (句点筆者)
と記しています。不審菴歴代すなわち利休から宗旦までの年忌の折の焼香の順位と斎筵さいえん(斎座さいざ)の席順を示したものです。それによると、当時、三家の後嗣は表千家が「宗員そういん」、裏千家が「玄室げんしつ」、武者小路千家では「宗屋そうおく」の後嗣号が用いられていたことがわかります。宗什がこの時期に「玄室」に改名したことは非常に興味深く感じられます。
ここで当時の裏千家の状況を整理しますと、認得斎には数名の男子がいましたが、すべて早生していて、後継者に恵まれていませんでした。認得斎は四十八歳で、当時としては老年の域に達していましたが、長女萬地まちが八歳、次女の照てるはそれより幼く、婿養子を迎えるには未だ幼すぎたため、萬地が成長したら婿を迎え、そして二人の間に生まれるであろう自身の直系に裏千家の道統を継承させるつもりであったと考えられます。一方で、宗什の次兄石牛斎が、認得斎を支える存在となっていたと考えられます。認得斎は、今後「千」の名字は各家一人だけとし、次三男は別名を立てるように定めた、表千家七代如心斎じょしんさいの遺言である「云置いいおき」に背くことを悩みつつも、家の繁栄を期待して石牛斎に真台子しんだいすの相伝を授け、千宗玄と名乗らせて四条高倉に分家を立てています(前出 筒井紘一「認得斎の生涯-認得斎の茶境と交友-」)。将来不測の事態が起きた時のことを熟考して、石牛斎が後見または継承できるように備えていたのでしょう。宗什もまた二十三歳になり、認得斎について茶の湯の修行を積み、重要な戦力の一翼を担う力強い存在となっていたと思われます。父不見斎は宗什七歳の時に亡くなっており、兄認得斎から見れば、父親との縁の薄い弟でありました。不見斎も宗什の行く末を案じながら亡くなったであろうことから、不見斎の霊を安んじる思いで、立派に成長した宗什の改名を、不見斎十七回忌のこの時を選んで行ったのではないでしょうか。玄室号は、宗什の父不見斎が宗室襲名前に名乗った所縁の号であり、後嗣号にも用いられた裏千家の由緒ある大切な名跡です。この号を名乗らせたことからも、認得斎の宗什に対する深い思いと期待を察することができます。しかしその宗什改め玄室には同時期に転機が訪れています。
好々斎の武者小路千家入家
好々斎は「登士録」によると「文政二年二月十二日方昌養為子實松平隠岐守臣千宗室弟初宗屋」とあり、文政二年二月十二日、正式に高松藩より八代一啜斎の養嗣子として許可され、武者小路千家に入家しています。その一年半程前に一啜斎により高松藩の横目よこめに提出された養子縁組の願い書の写しには、
私義、男子無御座候ニ付松平隠岐守殿
家中同姓千宗室弟宗屋与申者、
當年廿三歳ニ罷成申候、右之者
養子ニ仕、末之娘与娶申度奉願候、
御留守之義ニ者御座候得共、相成義ニ
御座候得者、此段宜奉願候、以上
八月十八日
千宗守
御横目中 (句点筆者)
とあり、一啜斎の末娘の婿養子としたいと願っています。この末娘がのちの宗栄そうえい(智昌ちしょう)にあたります。そしてこの記録から、好々斎は正式に入家する前の段階で、すでに宗屋とも名乗っていたことがわかります。文化十四年のこの時期には、前出の大綱の日記にあるように、少なくとも翌九月までに玄室と改名した時期にも重なります。「登士録」に宗屋と記されているのは、初めに出された養子願い書に、宗屋の号で記録されていたことによる考えられます。また、玄室号は裏千家の名前であることも考慮されたと思われます。好々斎が玄室を名乗っていたのはわずかな期間で、その前の段階で、宗栄との縁談が正式に両家により決まっていたことがうかがわれます。
ところで、認得斎は危機管理という観点で、好々斎(宗什)に玄室を襲名させたと思われるのに、なぜ裏千家にとって大切な好々斎を武者小路千家に譲る決心をしたのでしょうか。それは長女萬地の婿養子となる玄々斎の入家の予定が決定されたことによると考えられます。玄々斎は三河国奥殿おくとの藩主大給おぎゅう松平乗友まつだいらのりともの子で、幼名を千代松といいました。玄々斎の養子縁組は、実父乗友と叔父の乗尹のりただ、長兄の乗羨のりよしと、義父となる認得斎の茶の湯を通しての交流によります。好々斎のように、同じ千家の間の縁談ですら二年近くの歳月がかかっているのですから、大名との縁組みであればなおさら十分な猶予をもってすすめられたと思われます。好々斎と一啜斎の末娘宗栄との縁談が持ち上がる前に、すでに萬地と玄々斎との縁談が確実なものとなっていたのではないかと考えられます。また前出の石牛斎が認得斎にとり十分な働きをしていたことにより、もしも萬地と玄々斎の二人が十分に成長していない段階で自分が歿しても、石牛斎が二人を後見し、好々斎も武者小路千家に養子に入ったとしても、二人を支え、裏千家の道統を守ってくれると判断したのでしょう。そして認得斎が前代から受け継ぎ発展させた流儀・社中も二人を支えるという確信を持っていたからではないかと思われます。認得斎は一啜斎の懇願を受け入れ、好々斎を武者小路千家に入家させる決心をし、そして好々斎への心遣いから、わずかな期間とはいえ、父不見斎ゆかりの玄室号を襲名させたのではないでしょうか。この時点で一啜斎は認得斎より七歳年上の五十五歳で、直斎から継承した一翁以来の武者小路千家の道統を守り継承するには、好々斎が最適の人材であるとの決断であったと思われます。同じ千家の一族で利休の血脈を伝え、かつ裏千家で認得斎の薫陶を受け、十分に茶の湯の修行を積んだ好々斎を、同じく利休の血脈である娘の宗栄の婿に迎え、次代に武者小路千家の道統を継承させたいと願ったのも、もっともなことだと考えられます。そして裏千家では同年の四月九日、玄々斎を正式に養嗣子として迎え、九月には玄室を襲名させています。
好々斎は武者小路千家に入家するにあたり、認得斎に所望したものがありました。それは七事式しちじしきの「花月かげつ」です。認得斎はそれを許し、「花月」に因み、曾祖父にあたる最々斎竺叟さいさいさいじくそう筆になる「掬水月在手」の一行と、その対句になる「弄花香満衣」と命銘した自作の茶杓を併せて持参させました。武者小路千家では、七代直斎が表千家の如心斎と裏千家の八代一燈いっとうたちが七事式を作った時、これに参加しなかったため、当時、七事式は行われていませんでした。武者小路千家に七事式の一つである「花月」を導入したのが好々斎であったことがわかります。好々斎は入家すると同時に、流儀に新風を吹き込んでいます(茶道資料館「竺叟の遺芳」『最々斎竺叟』所収)。
これまで見てきたように、好々斎は認得斎にとり、父不見斎に代わって手塩にかけ、将来を嘱望する片腕のような存在であり、決して手放したくない弟であったと思われます。一方、一啜斎にとっては、何をおいても手に入れたい婿であり、それぞれが好々斎を西王母の仙桃になぞらえ、認得斎が「結實三千歳」の着語をし、一啜斎が仙桃を描いたのでしょう。この画賛には仙桃を手に入れた一啜斎の満盈まんえいの喜悦の思いが、白紙の賛には仙桃を手放した認得斎の空虚な寂寥せきりょうの思いが込められているのではないでしょうか。この二本の軸から、置かれている境遇は異なるものの、両家が利休の道統を受け継ぐという目的のもと、互いに助け合いながら、補い合っていくという堅い意思で結ばれていたことを察することができます。
◎不見斎
好々斎の実父不見斎は裏千家九代石翁宗室で、享和元年(一八〇一)に五十六歳で歿している。この時、好々斎は七歳であった。兄認得斎は十代柏叟宗室。文政九年(一八二六)、五十七歳で歿しており、十一代玄々斎と娘萬地への思いは察するにあまりあるが、弟の分家石牛斎と武者小路千家好々斎が支えてくれるという、安堵感を持って黄泉の旅路についたのではと思われる。
不見斎筆 消息 閏六月二日付
不見斎(好々斎実父)の長男認得斎 誕生の祝儀として鰹節を送ってくれたことに対する礼状である。
閏六月となっているので明和七年(1770)認得斎 誕生の年であることがわかる。
貴札忝致拝見候、今般
妻子致安産、男子出生
ニ付、為御祝義鰹節一折
被懸、御意忝幾久致悦納候
尚賜貴面御礼可申上候、恐惶
謹言 閏六月二日 (花押) 〆 千玄室
石牛斎作 竹茶杓 銘萬々歳
不見斎の次男石牛斎(好々斎実兄)の作になる茶杓である。剣先形の櫂先は鋭く、深い樋が通り通ったまことに力強い茶杓である。
石牛斎は宗玄、太翁酔月庵とも号し、兄認得斎 から皆伝を受けている。はじめ室町頭、のち四条高倉に分家し兄認得斎 支えた。文政十二年(1829)に五十六歳で亡くなっている。 早くに亡くなったため、その遺作は少なく、この茶杓はまことに珍しい品である。 筒箱共石牛斎が認め、外箱を裏千家十五代鵬雲斎が極めている。
好々斎作 竹茶杓 銘姫ゆり
今日庵形とされる剣先状の櫂先の茶杓は、裏千家六代六閑斎に始まるとされ、歴代家元により受け継がれている。
好々斎の父、九代不見斎と兄認得斎の作になる茶杓にもその特徴が顕著で、好々斎の作にも今日庵形の剣先櫂先をもつものがあり、「早苗」はその代表例といえる。 好々斎の茶杓にはその他に力強く豪快な作振りのものもみられ、晩年の作には「姫ゆり」のように華奢な姿が目立つ。「姫ゆり」は、木津家初代松斎の室柳に贈られた茶杓で、箱は同家二代得浅斎が極めている。当初は今日庵の削り方をもとにした作風であったが、次第に独自の茶杓の世界を推し進めていったことがわかる。 また「早苗」の筒と箱の筆跡は楷書でかっちりと認められており、襲名して間もない頃の作に多いが、「姫ゆり」に明らかなように、文字は年を経て兄認得斎の滑らかで、墨痕鮮やかな書風の影響を受けたことがうかがえる。
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